京成スカイライナー「50周年」という話の昨日に続くPart 2。この特急列車が本当は50歳か45歳かという議論はあり得る。1973年12月30日から1978年5月20日までは正式にはスカイライナーでなく、ノンストップ特急として暫定的なものだったのである。
1960年代終盤~70年代前半、所謂成田闘争は激しく炎上、そういう中で新東京国際空港(現・成田国際空港)の開港は延期を余儀なくされた。スカイライナーもデビュー運行開始出来ないどころか、AE形の試運転すら行えず野晒し状態を余儀なくされた。
だが、車両も野晒し状態では痛む一方なので、当時の京成電鉄経営陣が運輸省(当時)にその窮状を訴え暫定運用の許可を取り付けて、初代AE形スカイライナー暫定デビュー(当時はノンストップ特急)に漕ぎ付けた。
1973年12月30日に1日1往復で始まったこのノンストップ特急は、翌74年春に増便された。
AE形がスカイライナーとして空港特急として本格的に運行開始したのは1978年5月21日だった。「正式な」スカイライナーは近鉄30000系、京急800形、国鉄781系、サザンオールスターズ、TOTO、Bobby Caldwell、Prince、石野真子、竹内まりや、石川ひとみ、鶴ひろみ、宅麻伸、達川光男といった面々(敬称略)と同期になったのである。(本当は江川卓とも同期になる筈だったか…)
高砂~青砥間で中川を渡河する
ただこの本格デビュー直前の78年5月5日にはスカイライナー放火事件が宗吾の車庫で起きて1両が全焼している。呪われ過ぎの列車である京成スカイライナーは運行開始したものの、当時は旧成田空港駅(現・東成田駅)発着で、そこからバス乗り換えを強いられた事で利用は低迷した。
(リムジンバスの場合は東京CATで搭乗手続きも可能で空港まで直行)
2代目スカイライナー=AE100形(シティライナー運用時代)
成田空港の難産と悲劇の目撃者になった初代AE形、誕生から20年を迎える1990年代前半での車体更新計画が挙がったが、1990年にAE100形が登場する事もあって更新は見送られた。初代AEはその後3400形に変身を遂げたのは鉄道ファンなら広く知られる所。
50年前は1日1往復で暫定的にスタートしたこの特急も、翌年春に増発された。その後は利用が伸びず苦しんだが、1991年3月に現・成田空港駅(第1ターミナル)が完成し、空港直下の場所に直接行ける様になった。
初代AE形は3400形に生まれ変わった
そして時は21世紀。2010年に7月にスカイアクセス線開業が開業しスカイライナーも北総線・アクセス線経由になると、最高時速160㎞/hをウリにするなどスピードでのアピールが出来る様になった。それまで1時間程の所要時間だったのが最短で36分になった。現行AEはこれに合わせて登場し故山本寛斎氏デザインというのも話題になり、先代のAE100形を置き換えた。
2016年1月でAE100形の運用が終了した後は、本線経由の特急も全て現・AE形の運用になった。
最近ではあのパンデミックで大幅減便を強いられた時期も続いたのは記憶に新しいが、それも落ち着いた今は時間当たり3往復の体制で、AE形の車両不足も囁かれ、増備の噂も出ている。
北総線・白井駅付近での作例
左翼過激派と時代の中で悲劇の存在になったスカイライナー。それでも難産の末にデビューすると、今度は国鉄側に振り回される形で空港直下に行けず長く苦戦を強いられた。
空港直下に乗り入れを果たしても、京成本線は線形も悪くスピードは出せない。
苦難の行進が続いたこの特急に大きな光が差し込んだ。それは言うまでもなく、北総・アクセス線である。北総監獄と揶揄されるこの路線、嘗て計画された成田新幹線が形を変えてrealizeしたものと言える。かくして悲劇の列車は苦難の行進を経て遂に私鉄特急最速にして関東私鉄最強とも称される所まで来たのである。
当サイトは各種ランキングに参加しておりますので、画面右側若しくは記事内のバナーをクリック下さい。
1960年代終盤~70年代前半、所謂成田闘争は激しく炎上、そういう中で新東京国際空港(現・成田国際空港)の開港は延期を余儀なくされた。スカイライナーもデビュー運行開始出来ないどころか、AE形の試運転すら行えず野晒し状態を余儀なくされた。
だが、車両も野晒し状態では痛む一方なので、当時の京成電鉄経営陣が運輸省(当時)にその窮状を訴え暫定運用の許可を取り付けて、初代AE形スカイライナー暫定デビュー(当時はノンストップ特急)に漕ぎ付けた。
1973年12月30日に1日1往復で始まったこのノンストップ特急は、翌74年春に増便された。
AE形がスカイライナーとして空港特急として本格的に運行開始したのは1978年5月21日だった。「正式な」スカイライナーは近鉄30000系、京急800形、国鉄781系、サザンオールスターズ、TOTO、Bobby Caldwell、Prince、石野真子、竹内まりや、石川ひとみ、鶴ひろみ、宅麻伸、達川光男といった面々(敬称略)と同期になったのである。(本当は江川卓とも同期になる筈だったか…)
高砂~青砥間で中川を渡河する
ただこの本格デビュー直前の78年5月5日にはスカイライナー放火事件が宗吾の車庫で起きて1両が全焼している。呪われ過ぎの列車である京成スカイライナーは運行開始したものの、当時は旧成田空港駅(現・東成田駅)発着で、そこからバス乗り換えを強いられた事で利用は低迷した。
(リムジンバスの場合は東京CATで搭乗手続きも可能で空港まで直行)
2代目スカイライナー=AE100形(シティライナー運用時代)
成田空港の難産と悲劇の目撃者になった初代AE形、誕生から20年を迎える1990年代前半での車体更新計画が挙がったが、1990年にAE100形が登場する事もあって更新は見送られた。初代AEはその後3400形に変身を遂げたのは鉄道ファンなら広く知られる所。
50年前は1日1往復で暫定的にスタートしたこの特急も、翌年春に増発された。その後は利用が伸びず苦しんだが、1991年3月に現・成田空港駅(第1ターミナル)が完成し、空港直下の場所に直接行ける様になった。
初代AE形は3400形に生まれ変わった
そして時は21世紀。2010年に7月にスカイアクセス線開業が開業しスカイライナーも北総線・アクセス線経由になると、最高時速160㎞/hをウリにするなどスピードでのアピールが出来る様になった。それまで1時間程の所要時間だったのが最短で36分になった。現行AEはこれに合わせて登場し故山本寛斎氏デザインというのも話題になり、先代のAE100形を置き換えた。
2016年1月でAE100形の運用が終了した後は、本線経由の特急も全て現・AE形の運用になった。
最近ではあのパンデミックで大幅減便を強いられた時期も続いたのは記憶に新しいが、それも落ち着いた今は時間当たり3往復の体制で、AE形の車両不足も囁かれ、増備の噂も出ている。
北総線・白井駅付近での作例
左翼過激派と時代の中で悲劇の存在になったスカイライナー。それでも難産の末にデビューすると、今度は国鉄側に振り回される形で空港直下に行けず長く苦戦を強いられた。
空港直下に乗り入れを果たしても、京成本線は線形も悪くスピードは出せない。
苦難の行進が続いたこの特急に大きな光が差し込んだ。それは言うまでもなく、北総・アクセス線である。北総監獄と揶揄されるこの路線、嘗て計画された成田新幹線が形を変えてrealizeしたものと言える。かくして悲劇の列車は苦難の行進を経て遂に私鉄特急最速にして関東私鉄最強とも称される所まで来たのである。
当サイトは各種ランキングに参加しておりますので、画面右側若しくは記事内のバナーをクリック下さい。