Dufftown 街角ミュージック

マイナーパワーがこの世を救う。今こそ日本を大和民族の手に取り戻せ!連綿と受け継がれる日本と大和民族を護ろう。 害人天国を~、ブッ壊す!

カテゴリ: 自動車

東京都内に都市計画道路補助74号線というのがある。小生の地元にも割と近い所を走っている道路で、諏訪通りという名で知られていて、小生も車で時折通る道である。東京都道25号線の支線であり、この都道25号は神楽坂上~本天沼間で早稲田通りとして有名である。

小滝橋交差点から諏訪町交差点(明治通との交点)を経由し、馬場下町交差点まで早稲田通りと並行して走り、高田馬場駅を避けて通れる道である。諏訪町交差点は現在、東京メトロ副都心線西早稲田駅の地上にある。馬場下町交差点というと、穴八幡宮と早稲田大学戸山キャンパスに面している。

この補助74号線、大きな問題を抱えていた。この道はJR山手線同貨物線及び西武新宿線の線路を潜るのだが、その場所の道幅が6m程と狭隘で余裕がない事が、交通の妨げになって歩行者・軽車両・自動車何れにとっても事故のリスクが高く危険でもあった。加えて、都市計画道路補助72号線との交点=大久保スポーツプラザ入口交差点は渋滞も多かったので、補助74号都道と呼べない吐道レベルだった。
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早稲田側からトンネル入口を臨んで

昔は狭かった補助74号線、その全体を拡幅整備する事業は1993年にスタートし、この狭隘部分以外は随分前に広げられている。
大久保3丁目~高田馬場4丁目の凡そ460m間で線路を潜る所で新しいアンダーパスを作る実際の工事が本格化したのは2008年位の事だったらしい。小生も工事の始まった時期をはっきり覚えていない程時間が経ったのである。何年もこの道を通る度に側道を通る事を余儀なくされ続け、吐道に付き合わされ混雑のストレスを溜めたのである。

たかがアンダーパスは400mあるとは言うが、何故15年も掛ったのか不明である。未成道で放置される道も多いこの時代、此処もその運命を辿るものとも思われた。
それが今年に入って工事が進む感じが見えたので漸く供用開始まで行くかと期待させたところ、秋に入って11月供用開始という話が聞こえ、その後11月18日午後に開通、走行可能と話が入って来た。
一件落着だが、「一体何時まで掛ってんねん、ボケ!コラ!」というのが小生の感想である。


序に言うと、この道路の西の端点=小滝橋交差点でも変化があり、従来は早稲田方面から西に走っても早稲田通りの下り方向(中野方面)には入れなかったのが、直進して入れる様に変わった。都道25号の補助なのにその下りに入れないという訳ワカメな欠陥道路も解消された。

そして供用開始後、いざ走るとこれが地味で実に呆気ない(普通そんなモンだが…)。
こんなモンに15年も掛けたのかと思うと、やっぱり腹が立つ。
工事が始まった時は所謂世界金融危機が起きた辺りで、東京都知事は石原慎太郎氏だったが、そこからの15年で猪瀬直樹~舛添要一~小池百合子(残念ながらそこは小池ジョアンナ💕嬢=現・Joannaではない)という風に変遷し、都政自体もドンドンちゃらけてクソになっていった。



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この企画も49回目、こんなに回数を重ねるとは想像だにしていなかった。Villeneuve氏の事だけで3記事目に入るなんて思っていなかった。

さて、同氏のドライヴィングは、その限界を極めるやり方のあまりクラッシュして宙を飛ぶ事も多かったのは事実で、それ故にAir Canadaなんて揶揄された時期もあるが、常に全開というスタイルを変える事はなかったが、Enzo Ferrari氏はも彼の擁護に徹したという。Ferrariで最初のチームメイトだったN. ラウダ氏から「ゆっくり様子を伺って徐々に全開にしていけばいいじゃないか?」と問われると、ヴィルヌーヴ氏はこう答えたらしい。「僕の知ってるやり方はこれしかない、常に全開で行くそれから抑えていけば良い。

79年からはJody Schekter氏と組んで、同氏のアシストという役割を果たす様になった事により、前年までよりsteadyな走りも見せるものの、Schekter氏の影に隠れる事なく常に全開というジルの基本姿勢は変わらなかった。同年のフランスGP(於・Circuit de Dijon-Prenois)で有名なバトルを繰り広げたRené Arnoux(ルネ・アルヌー)氏も「Gillesは絶対に幅寄せや体当たりをしてこない。そう分かっていたからこそあのバトルが出来た。」と語っていた。
1981年のスペインGP(於・Circuito Permanente del Jarama)では"Villeneuve Train"という伝説も生まれた。同氏のマシンを先頭に何台ものマシンが列車の如く連なる状況が続き、最終的には1.24秒の間に上位5台(G. Villeneuve以下、Jacques Laffite・John Watson MBE・Carlos Reutemann・Elio de Angelisという御歴々)がひしめいたままゴールするレースを制したのも名作のレースの一つ。コース幅の狭さとストレートの短さを利用した戦い方が光っての勝利と言える
(ここまでMotortz・2018年4月の記事、その他をを参照)


1970年代終盤~80年代初頭のF1で特徴的なのは、1977年のLotus 78の成功からground effect car(グラウンド・エフェクト・カー)が一気に広まってF1を席巻した事である。ただ、この1982年の3件の大事故をきっかけにFIAが1983年からフラットボトム規定を導入する事となり、グラウンド・エフェクト・カーは82年限りで姿を消した。
この当時のグラウンド・エフェクト・カーは事故等で本来の方向に対し逆向きになるとダウンフォースが失われるのみならず、揚力が発生してマシンが大きく宙を舞う様な事態にもなるという欠点もあった。ゾルダーでの事故でもマシンが宙を舞いながら何回転もした事を考えると、グラウンド・エフェクトが裏目に出た可能性がある。

そんなグラウンド・エフェクト・カーだが、今シーズンから事実上解禁され、F1では40年振りの復活と相成った。この復活の背景にはバトルとオーヴァーテイクのチャンスを増やすという狙いがあるらしい。
これまでのフラットボトム形状の場合だと、他のマシンの後ろに付いた時、車間距離が20mあっても35%のダウンフォースを失い、10mでは47%程失う為、結果的にオーヴァーテイクが困難になる。これがエフェクトカーだと車間距離20mで失うダウンフォースは4%、10mでも18%程度と見積もられる。ダウンフォースを失う状況は空気の流れを得られない事にもなるので、冷却系にも重大なトラブルの起きるリスクも高い。


この1982年はまだカーボンモノコックのシャシーは採用されておらず、シャシーはアルミモノコックだった。カーボンモノコックシャシーがあと2~3年早く登場していたらこれらの悲劇は防げた可能性はある。

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ゾルダー並びモントリオール(後述)という2つの悲劇の原因を作った当のDidier J. L. Pironi(ディディエ・ピローニ)氏だが、Gillesの葬儀への出席は遺族によって拒否された(当然)。
葬儀の弔辞を述べたのはJ. シェクター氏だった。「Gilles Villeneuveは純粋な心の持ち主だった。そして又、彼はレーシング史上最も速いレーサーと言えるであろう。今彼は好きな事をしに行ったのだ。でも、彼はいつもそばにいる、それは彼がレース界に残した業績を世界中が忘れないからである。」


ゾルダーでの悲劇の約1ヶ月後=6月13日にはRiccardo Paletti(リカルド・パレッティ)氏も事故死。同氏はOsella Squadra Corse(オゼッラ=80年代のF1に参戦していた)という弱小チームのドライバーだった。この年の第8戦のカナダGP、ポールポジションはピローニ氏。PPを獲った際の記者会見では「本来ここにいるべき男がいない」と言い、涙を隠さなかった。
(どの面下げてそんな事言うねん?しばくぞドアホ!というツッコミは無しで…、この厚かましさが西洋人と思って欲しい)


そして決勝のスタート、PPだったPironi氏が何といきなりエンストをやらかす。そこに後方からやって来たPaletti氏がに加速の付いた状態で追突。パレッティ氏は両足骨折状態となり、胸はステアリングで圧迫されていた。その上で、救助作業の最中にマシンが炎上し、消火作業で救出に時間を要する状況だった。死因は胸郭破裂だが、実際はほぼ即死状態だったとも言われる。彼にとっては24歳の誕生日を迎えるその2日前の悲劇だった。
これは又、モントリオールのサーキットがÎle Notre-Dame CircuitからCircuit Gilles Villeneuveに名称変更して直ぐの事でもあった。今年はモントリオールのサーキットがジル・ヴィルヌーブ・サーキットに名称変更して丁度40年という事にもなる。

そしてピローニ氏は、同年第12戦のドイツGPで予選前のフリープラクティスで更にやらかす。
この日は雨で視界は悪かったが、そこでフランスの後輩で親友でもあった、Alain Prost氏(当時はRenault)のマシン相手に追突する様にして大クラッシュを起こしてしまった。
これで一命こそ取り留めたが、選手生命はここで事実上絶たれてしまった。それでも同氏はF1復帰を諦めずリハビリを続けたが、5年後の1987年8月にパワーボート世界選手権シリーズ(於・Isle of Wight, UK)のレース中の事故で死亡した=享年35。更に因縁の相手=G. Villeneuve氏も1400PSを誇るパワーボート及びヘリコプターを所有していたのは有名。


80年代初頭まではそれなりの頻度で死亡事故も起きていたF1だったが、80年代中盤からはカーボンモノコックボディが全面導入される等して安全性が大きく向上した結果、1994年サンマリノGPまでレース中の死亡事故が起きなかった。(マシンテスト中の死亡事故はあったが)
ただ、このサンマリノGPでRoland Ratzenberger(ローランド・ラッツェンバーガー)並び、Ayrton Senna da Silva(アイルトン・セナ)の両氏が続けて事故死した。


尚、Pironi氏には死去時に妊娠中のガールフレンドがいて、彼女はその後男子の双子を出産した。そして、その双子にはGillesとDidierの名が与えられた。Gilles Pironi氏は現在、Mercedes AMG F1のメカニックをしている。
この1982年のチャンピオンになったドライヴァーは奇しくもF1に行く前のAtlantic Championship時代に鎬を削ったライバル=Keijo Erik Rosberg(ケケ・ロズベルグ)氏だった。(Chapter 47参照)


ヴィルヌーヴ氏の死亡事故の1週間後=5月15日のアメリカ・Indy Car Seriesでも悲劇的で凄惨な事故が起きた。(この事故も大変有名)
Indianapolis Motor Speedway(インディアナポリス・モーター・スピードウェイ)で行なわれていたIndy 500(インディ500)予選中にGordon E. Smiley(ゴードン・スマイリー)氏が時速200マイル(320㎞/h)程度でフロントからウォールに激突
衝突の衝撃により同氏のマシンはバラバラに砕け、その激しい衝撃によってその身体は原形を留めない程に破壊されて、言うまでもなく即死。ほぼ全ての骨が砕け、頭部の上半分は吹っ飛んで、コース上に飛び散っていたグレーの破片は何と!彼の脳だったレーシングスーツの存在で辛うじて身元が判明出来たというレベルの悲惨さだったらしい。因みにこれはIndy500では1973年以来9年振りとなる死亡事故だった。


次回は遂に更なる大台到達、Chapter 50に乞う御期待!



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今宵も前記事=Chapter 47に続いて、1982年5月にCircuit Zolder=ゾルダー・サーキットで起きたあの悲劇の話をする。

この悲劇の起きた1982年のF1は異様だったと言える。優勝者が16戦で11名にのぼり、3勝以上を挙げたドライヴァーはいなかった。82・83年はターボエンジンが伸すその前夜みたいな時で、色々な部分が過渡期にあってコンフュージョンしていたとも言える。この年にターボを使用したチームは、FerrariRenaultBrabham(BMW)・Toleman=後のBenetton(Hart)だった。Brabhamがシーズン途中でDFV(フォード・ノンターボV8)からBMW1.5ℓ直4ターボにエンジンをチェンジするという様な事も起きた。

ヴィルヌーブ氏は優勝6回、獲得ポイント107という生涯成績で、成績自体はレジェンダリーといえるレベルではないだろう。だが、そのスピードと非常にアグレッシブなドライビングスタイル、決して諦めない強い精神で、ティフォシ達の心を射止めた。1979年オランダGPの「三輪走行」(コース上で左フロントがバーストして、3輪の状態でピットに激走した)は伝説になったが、これは同氏にこそなせる業だったのだろう。

では、Villeneuve氏についてF1 ジャーナリスト・Adam Cooper氏はこう書いている(May, 2020、motorsport.com)
彼はただの無鉄砲な人間だった訳ではなく、自分を計算外の危険に晒すような人間ではなかったと思っている。彼はしっかりとした判断に基づいて戦う男だったと思う。彼は常にクレイジーな男であるというイメージを持たれていたが、実際はそうではなかった。彼がクレイジーになるのは、何か具体的なイメージが描けている時だけだった。計算と確信が揃った時にクレイジーな程アグレッシブになるという事なのだろう。


81年からFerrariに加わっていたデザイナーの、Harvey Postlethwaite(ハーヴェイ・ポスレスウェイト)氏は同氏に関し、こういう趣旨の事を語っていたらしい。(一部抜粋)
「彼はドライビングに真剣で、何事も限界まで攻めるのが好きだった。そして各1周が、前のラップと同じ速さかそれ以上でありたいと思っていた。それが彼の限界への攻め方だったのだろう」
「彼は人々が思っている以上に明るく、狂った人間ではなかった。実際とは逆のイメージが世間では付いたが、私は彼が真面目で明るい男と思っていた」
「彼は政治的な面はなく、マシンのことをシンプルに、明確に話してくれた。その点は非常に評価されていたと思う。ただ彼が驚くほど速かったのは間違いない。彼は歴代で最も速いレーシングドライバーのひとりだろう」
「彼は政治的な面はなく、マシンのことをシンプルに、明確に話してくれた。その点は非常に評価されていたと思う。ただ彼が驚くほど速かったのは間違いない。彼は歴代で最も速いレーシングドライバーのひとりだろう」


「Ferrariは(その当時、90年代と比して)政治色の薄いチームだった。ただ、他人の仕事に首を突っ込んで気分を害してはいけないという風潮はあったが、Gillesはそんなことを気にしなかった。マシンが良くないと思えばそう言うし、それによって人を怒らせていたが、彼は気にしていなかった」


更に1979・80年にFerrariでチームメイトだったJody D. Schekter(ジョディ・シェクター)氏は、ヴィルヌーブ氏についてこう語っていた。
2020年に行われた同氏へのインタビューでは(抜粋)
フェラーリに入って直ぐに気心知れる様になって、モナコではよくツルんでいた。ダンスと女の子が好きで、すごく愉快なヤツだった。それでいて頭もイイ。だから、あっという間に親友と呼べる仲になった。一緒にいて楽しいだけじゃなく、互いに尊敬し合える間柄じゃないとそうはならない。根っからの善人というのは彼のような人間を言うのであって、およそ悪意というものが感じられなかった。」


「(シェクター氏が)GPDA(Grand Prix Drivers Association)の会長を務めていた時、ジルはとても協力的で、素晴らしいメンバーの1人だった。彼も私も基本的な考え方は似ていて、出来るだけ安全に走るという態度だ。でもここがチャンスと見て取れば、慎重さをかなぐり捨ててアグレッシブに攻める。彼は計算された危険しか冒さなかった。
クレイジーというのは彼が意図的に作ったイメージであって、実際はそうじゃない。」と評していた。


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そして、4月のサンマリノGPからゾルダーでの事故に到る経緯については、この様な事を語っていた。
「Gillesは2人の友情がいかに貴重だったか良く分かっていたので、Pironiがチームメイトにあんな仕打ちができるなんて、ジルには想像も及ばない事だった。それくらい彼は純真で、おまけに底抜けのお人好しだったわけさ。天地が覆る程のショックを受けて打ちひしがれていた。それはまさに残酷と言う他ない。何がなんでもピローニを打ち負かさなければならない、とジルは決意していた筈だ、とんでもない重圧になる程に。トラブルはこういう時に起きる。セッションも残りあとわずか、ここで一発決めないかんという限界の状況に自らを追い込んでしまったか?」


Scuderia Ferrariは1979年にJ. シェクター氏がドライバーチャンピオンを獲得して、チームもコンストラクターチャンピオンになった。翌80年は逆で不振を託った。
そこで81年にはポスレスウェイト氏をデザイナーに迎えて、シャシー面の強化を試みた。1982年にはアルミハニカムパネル・フルモノコックシャシー+1.5l V6 twin turboという126C2が使用された。翌83年前半は126C2B、後半は126C3となった。1982・83年は2年連続でコンストラクターズ・チャンピオンは獲得した。


我々の世代だとFerrariのカーナンバー27という一種の固定観念みたいなものが植わっている。それは紛れもなく、Gillesのインパクトが強かった事の証左という一面があると思われる。Enzo Ferrari氏や数多くのファン達から27を永久欠番にという声が挙がった事からも判る。

Graham・Damon Hill、Keijo Erik・Nico Erik Rosbergといえば親子2代でチャンピオンであるが、Gilles・Jacques Villeneuveも親子チャンプではないものの2代でウィナーという事になる。

次回=Chapter 49へと続く!



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今から丁度40年前の1982年というと、4輪モータースポーツでは非常に悲劇的な事も起きている。

Scuderia Ferrari(スクーデリア・フェラーリ=フェラーリF1チーム)の歴代F1ドライヴァーで真っ先として名が挙がるのは、今ではMichaei Schumacher(ミハエル・シューマッハ)であろう。この他だと、Kimi Räikkönen(キミ・ライコネン)、Felipe Massa(フェリペ・マッサ)、Nigel Mansell(ナイジェル・マンセル)、Alain Prost(アラン・プロスト)、Gerhard Berger(ゲルハルト・ベルガー)、Jody Schekter(ジョディ・シェクター)、Niki Lauda(ニキ・ラウダ)、Phil Hill(フィル・ヒル)、Juan Manuel Fangio(ファン・マヌエル・ファンジオ)、Alberto Ascari(アルベルト・アスカリ)、Michael Hawthorn(マイケル・ホーソン)なんて所が挙がるだろうか。

そんな超弩級のレジェンド達を向こうに回して、記録より記憶に残る(中〇清かよ?)、今でもモータースポーツファンの心に鮮烈に残る伝説を越えて神話になった存在とも言えるのがここで取り上げるGilles Villeneuve(ジル・ヴィルヌーブ)氏なのである。尤も、1997年のチャンピオン=Jacques Villeneuve(ジャック・ヴィルヌーブ)氏の父親として知っているという御仁も多かろう。

カナダの英雄でFerrariの伝説である同氏だが、御存知の通り1982年5月8日にCircuit Zolder(ゾルダー・サーキット)でのベルギーGPで事故死した。
それは予選の最終盤の事だった。残り時間も少なくなった時点で、予選トップは事もあろうにチームメイトで怨敵になったDidier Pironi(ディディエ・ピローニ)氏。ソイツからポールポジションを奪うべく猛アタックを仕掛けた際に、Jochen R. Mass(ヨッヘン・マス)のマシンに接触、そのまま乗り上げて更に大破。J. マス氏は追い付いてきたヴィルヌーブ氏に対し道を譲ろうとラインを右にずらしたが、追い抜こうとしたVilleneuve氏も右に寄ってしまったので、追突する様にぶつかって乗り上げ、マシンは宙を舞う形になった。
同氏は事故の衝撃で投げ出され、コース脇のフェンスに叩き付けられると、打ち所が悪くてその日の21時頃に死亡した、享年32歳。この事故はF1で最も悲劇的なものの一つに数えられる。
この時、Renaultでチャンピオン争いをしていたA. Prost氏(母国語は同じフランス語)は「彼のいないF1はもう同じF1ではない」とコメントしていた


この事故の模様は「Turbo Time」(邦題=ウィニングラン)、「Grand Prix Requiem」(邦題はグッバイヒーロー)というドキュメンタリー映画に収録されている。
この事故を非常に悲劇的なものにしたのは、そのサイドストーリー。このサイドストーリーはチームメイトだったDidier J. L. Pironi(ディディエ・ピローニ)氏の裏切りから生じた確執の事である。

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この年のF1では第2戦ブラジルGP、続くアメリカ・ロングビーチGPでの「水タンク事件」の裁定を巡りFISAとFOCAが対立。
Brabham・WilliamsLotusMcLarenなど10チームが4月25日の第4戦=San Marino GPのボイコットを決める。FerrariRenaultAlfa Romeo・Toleman・Tyrrell・ATS・Osellaという7チーム・14台だけでレースが行われるという異常事態。


レース決勝の展開はというと、規定60周の内、Lap 6で優勝候補の一角だったRenaultA. Prost氏は早々にリタイア。Lap 44を終えた所でトップだったRenaultRené Arnoux(ルネ・アルヌー)氏もリタイヤ。斯くしてヴィルヌーヴ氏が首位に躍り出た。その後ろにピローニ氏がファステストラップを記録して僅差で続き、接戦になった。ただこの時点で3位以下とは40秒以上の大差があり、燃料切れのリスクを懸念したチームの方からはVilleneuve・Pironiの両者に「SLOW」のサインが出された。

Villeneuve氏はそれに従うが、53周目にPironi氏がオーヴァーテイクして首位に立った。59周目にヴィルヌーヴ氏が抜き返し首位に立ち、2台とも再びペースダウン。しかし、最終周のTosa(トサ=コースの西の端にあるヘアピンコーナーで肘という意味)手前でPironi氏ががいきなりペースアップしてVilleneuve氏をオーヴァーテイク。意表を突かれた形となった同氏は万事休す。
こうしてPironi氏が優勝を巧みに掻っ攫った。この背景として、両者で「SLOW」のサインに対する解釈が違ったと言われる。これにはチームサイドもヴィルヌーブ氏も大激怒で、ヴィルヌーブ氏はピローニ氏に関して「チームメイトとしても扱わない」と言い、口も利かなくなったという。


ただ、関係者等への後年のインタビューその他を見ると、この「確執」はメディアによって実際より大きなものの様に印象操作されて、それが独り歩きしたという可能性は高い。

Joseph Gilles Henri Villeneuve(ジョセフ・ジル・アンリ・ヴィルヌーブ)氏は1950年にQuebec(ケベック)州で生まれる。カナダ人と言っても、名前の通りフランス系であり母国語もフランス語である。自動車レース活動を本格的に始めたのは1973年、それまではスノーモービル競技をしていた。
1974~76年はAtlantic Championship(アトランティック・チャンピオンシップ)に参戦していたが、この時鎬を削った相手は奇しくも1982年のチャンピオン=Keijo Erik Rosberg(ケケ・ロズベルグ)氏だった。


1976年9月5日にケベック州のTrois-Rivières(トロワ・リヴィエール)で行われた同シリーズのレースで、スポット参戦したJames Hunt(ジェイムズ・ハント)氏=この年のF1チャンピオンを下して!優勝。これがきっかけでハント氏の推薦も得て翌77年7月にMcLarenでスポット参戦の機会を得た。
このF1デビュー戦はマシントラブルも抱えて11位完走に終わったが、これがEnzo Ferrari(エンツォ・フェラーリ)氏の目に留まり、78年からフェラーリのシートをGetだぜぃ!になる。更にそれに先立ち、Niki Lauda氏の代役として77年のカナダGP・日本GPでマシンを駆る事となった。


実は同年の最終戦は富士での日本GPだったが、この決勝でVilleneuve氏のマシンはRonnie Peterson(ロニー・ペテルソン=Tyrrellでマシンは6輪のP34)氏の車に追突し、宙高く舞い上がって立ち入り禁止区域に何故かいた観客らの中に落下。マシンは大破したが本人は無傷。しかし、この事故で観客・警備員の計2名が死亡、計9名の重軽傷者を出す大惨事となった。
これで、ヴィルヌーブ氏は静岡県警によって業務上過失致死罪の容疑で書類送検を喰らい、F1の日本GPは78~86年までカレンダーから消えた。


この10年後にバブル景気+日本GP復活+フジテレビの猛プッシュでA. セナの人気が爆発したのである。若し、この富士での事故が起きずに、78年以降も日本GPが行われていたら、Villeneuve氏は日本で人気爆発となったのだろうか。

次回=Chapter 48へと続く!



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名二環が全然開通した。
以前、「東京は三環状」とキャンペーンしていたが、名古屋も三環状を目指しているのである。因みに落合博満氏は名古屋(中日)時代に三冠王は獲れていない。
御存知の通り、首都圏の三環状は完成していない。首都高速C2中央環状線=完成、東京外環自動車道=未通部分40%程度あり(大泉~川崎若しくは平和島)、首都圏中央連絡自動車道=10%程が未通(大栄~横芝・藤沢~釜利谷)その完成は早くても2025年度である。
国交省の発表だと三環状の中に首都高速C1都心環状線は入っていない、意図する所があって四環状にはしたくないのだろうか?


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5月1日に名二環=C2・名古屋環状2号線名古屋西jct飛島jctが開通。一般道58㎞と専用部54+12㎞が組み合わさっている。名古屋西から飛島で伊勢湾道に入って終わるまでの12㎞程だが、既存の名古屋南Jct~高針Jct~楠Jct~清州Jct~名古屋西Jct及び伊勢湾岸自動車道の飛島~名古屋南と併せて名古屋市の外側を取り囲むループが完成した事となる。この度の開通区間は
名二環名古屋高速に対距離料金制を導入という事になった、東海環状自動車道の内側の高速の料金を大都市近郊区間の水準に統一する事となった。この度の料金改定で東海環状自動車道連続利用割引は終了との事。こういうと何となく聞こえは良いが多分実際は体の良い値上げになってしまうのは間違いない。(首都高速が距離別料金に移行した時も値上げになった。不公平を無くすのが値上げというのは霞が関特有の論理でしかない。霞が関の政策決定に関わる御歴々には身銭を切ってハンドルを握って高速を走るという事があり得ないのだから、)


名二環は首都圏で言えば東京外環自動車道に当るものだろうか。名二環は去る5月1日に目出度く完成・全線供用に漕ぎつけたが、東京外環自動車道は、東京外環プロジェクトと銘打たれて大泉Jct~東名Jctが事業中だが両端付近は進みつつあるがほんの一部に過ぎない。何時になったら供用されるのか相当先だと覚悟せねばならない感じである。大泉Jct~東名Jctですらこのザマで、まだこれが平和島辺りか若しくは川崎まで延ばされるという事らしいが、事業化の段階まで進んでいない。


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名駅の駅前で昔にやっていたイルミネーションイベント

三つ目に当るC3=東海環状自動車道だが、完成は2026年以降になるらしい。豊田東Jct(新東名)新四日市Jct(新名神)の間を蹄鉄形に名古屋周辺を取り囲んで行く全長約160㎞だが、豊田~瀬戸~多治見~土岐~美濃加茂~関~本巣~大垣~養老~四日市というルートの西側半分を中心に未通区間を残している。山県~大野神戸・養老~大安(養老山脈がある)が未通で用地取得すら終わっていない場所もある様で、2026年以降の開通予定らしい。国道475号は1993年の指定であり、2005年3月に愛知万博に合わせて美濃関~豊田東で初めて開通した。指定から最初の部分開通までで12年掛かっていて、全線開通には33年掛かるという計算になる

財務省が緊縮財政を押し通さなければ既に全通していたかも知れない。大都市近郊の高速道路は整備を急いで優先した方が良いのではないか、積極財政であれば可能になる筈である。自国通貨建ての自国国債がデフォルト起こすなんてありえないと財務省自体が述べているのだから。
財務大臣の麻生太郎は積極財政を唱えていたが財務省に懐柔を食らって今や隷属させられて、「2025年までにプライマリバランスをやる」とぬかす様になってしまった。先進国でプライマリバランスなんてものにしがみついているのは日本だけである。そんな状況が続いて治水事業や交通インフラは急務なヤツでも予算付けてもらえずに待ちの状態の物が溢れて返っていてそれこそ大々々渋滞である。


国債発行を増やしても、政府の借金にはなってもそれと同時に預金という形で国民や企業等の資産に変わる。積極財政だと政府債務の対GDP比が増大してしまうという事を危惧する奴等が多いが、それはGDP を増やせれば解決する。この事は良く頭に入れておくべきである。

京都市内や札幌市内の様な碁盤状が良いのか、環状+放射の蜘蛛の巣状が良いのかというので論議の余地はある様だが、街中で一般道が平面交差している形なら碁盤状が良いだろうが、蜘蛛の巣形も碁盤形の変形と考えればそんな神経質に考える事も無かろう。
いずれにせよ地図が全く読めない奴(本当にいる、特にオバハン・BBA)はダメなのだから。



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