今日=11月30日はオートフォーカスカメラの日だという。この事を小生は、今日夕方出先のエレベーターの液晶モニターで知った次第である。
小生はマウントがPENTAXなのでそのオートフォーカスを正直あまり信用していない。そこに来て、近年のデジタル一眼機種ではライヴビューで拡大してピントを詰められる事もあり、可能な限りMFを使うのでオートフォーカスの使用頻度は低い


小生の個人的撮影スタイルの話は置いておいて、AFカメラは1977年11月30日に爆誕した小西六写真工業(当時)のコニカC35AFが最初である。これはジャスピンコニカとの別名で呼ばれ、2年間で100万台を売るヒット商品となった。
70年代当時に行なわれた市場調査の結果では、撮影済みフィルムの失敗要因の36%がピンぼけであることが判明した。これはシャッターを押すだけで自動的にピントを合わせてくれるというエポックメイキングなカメラであった。この後、数年でAFのカメラが次々登場するが、これらはレンズ一体型カメラであった。

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これはMF置きピンで撮っているが…東京都交通局10-300形を京王永山駅付近の「電車見橋」から俯瞰で

小西六の名は小西屋六兵衛店に由来する。小西屋という大商店の6代目の小西屋六兵衛(本名=杉浦六右衛門)が、25歳の時に写真館で撮影した写真に感動し、写真材料の取り扱いを始めた。その後独立して、日本橋に写真材料と薬種を取り扱う小西六本店を開業した。これが小西六写真工業→コニカコニカミノルタと変遷して、このイメージング部門は2006年にSONYへ売却された。
小西本店は1903年、チェリー手提用暗函という物を爆誕させ、カメラが一般人の手に近付いて行くきっかけを作った。小西本店は現在の東京工芸大学の前身になる小西写真専門学校を1923年に設立する等、写真産業の「中興の祖」でもあったともいえる。

AF一眼レフを世界で最初にリリースしたのは実をいうとリコーであった。PENTAXだと思われている場合が多いが、それは間違い。1981年2月にリリースされた、リコーXR6にAFリケノン50mmF2という組み合わせ、これが世界初の市販AF一眼レフ(フォーカス制御はレンズ側)だったが、リコーがカメラメーカーとしてはマイナー過ぎて話題にならなかった。当時のリコーはKマウントだった、これってPENTAXと一緒。
世界初AF一眼レフとよく言われるPENTAXのME F+SMC PENTAX AFズーム35-70mmF2.8というセットが出されたのはこの年11月の事だった。ボディにTTLフォーカスセンサーがあり、ここで検知したピントをマウントを通じてレンズに伝え、レンズ内のモーターがレンズを駆動するというAF形式を採用している。それから約30年後にペンタックスイメージングはKマウントリケノンレンズを作っていたリコーに買収されてRICOH IMAGINGになるのであった。

この方式のAF一眼レフはオリンパスも開発してリリースしている。
ニコンもこれに続いてプロレベルのAF一眼レフを出した。ニコンF3AF+AiAFニッコール80mmF2.8S・AiAFEDニッコール200mm3.5S・TC-16Sというセットだった。


COSINA(コシナ)はAF制御をレンズ側で行う2種類のレンズを出していて、7種類のマウントに対応するラインナップだった。そのレンズは75-200mmF4.5AF及び28-70mmF3.5-4.8AFだった。

しかし初期のAF一眼レフは技術的に熟成不足で、対応レンズも殆どなく商業的成功なんぞ望めなかった。これが世間に広まるのは、1985年2月にミノルタがα‐7000(アメリカではMaxxum 7000)をリリースして「αショック」を巻き起すまで待つ事となる。ミノルタはレンズシステムもAF用に一新して、東芝製AFセンサー+IHI製ロータリーエンコーダー+自社開発の光学システムという組み合わせで、X-600のフォーカスエイド機能で搭載した従前のHoneywell(ハネウェル)製のTCLモジュールと比べるとAF性能は大幅に向上した。ミノルタはこの半年後にプロ用機のα‐9000を出している。以降フィルムのαシリーズは2004年まで出され続けた。デジタルのレフ式αシリーズは2010年まで出ていたが、2013年にEマウントのミラーレスにαの名は引き継がれた
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こういう物の撮影はライヴビュー+MFでピントを詰めて撮影した方が良いか…

こうしてαショックを巻き起こし、鼻息荒くアゲアゲだった筈のミノルタだったが、そこにアメリカから超特大の鉄槌が下ってしまった。(´;ω;`)
サブマリン特許の訴訟代表例としてよく知られる、「ミノルタ・ハネウェル特許訴訟」である。これはHoneywell(ハネウェル)が、AF一眼レフカメラのαシリーズのAF機構が自社の特許4件を侵害し、また技術移転に関する契約に違反していると主張して、ミノルタとその現地法人を相手取り1987年4月に起こした訴訟である。


この争点の主な部分は「401号特許」と「オガワ特許」であったが、結局1992年にミノルタがハネウェルとの和解に応じ、127,500,000USDを支払うことになった。単に知的財産権の問題に留まらず、貿易摩擦という問題も大きく絡んでいたのは明らか。因みに「4件の特許侵害」のうち「401号特許」と「オガワ特許」は認められたが、残り2件は認められなかった。今では当たり前の様に生活に彼方此方で溶け込んでいるAF技術だが、抑々は軍事技術として誕生したのは間違いない。

その後、ハネウェルはこの勢いを駆って、AFカメラを生産していた日本の各メーカーに同様の請求をした。これでハネウェルは凡そ3.1億USDを、キャノン以下日本国内の10社以上から追加でふんだくる事に成功した。
日本はバブル崩壊の直後で30年以上を失い続けるその始まりで、アメリカは史上最大ともいわれる繁栄を享受し始めたとされる時だったが、まさにその流れを象徴する出来事の一つだった。
写真産業に大きな足跡を残したミノルタがカメラ産業から撤退せざるを得ない状況になったのは、抑々の原因がこの事件といわれている。αショックを巻き起こし、ミノルタ黄金時代を築いたAFが、カメラメーカーとしての終わりの始まりになってしまったのはironicな事である。


小生が以前、あるメーカーの関係者に聞いたところだと、デジタルの受光面(CCD・CMOS等)はフィルムより全然薄いので、その分フォーカスに遊びが無いフィルムに比べてデジタルのフォーカスは超シビアにならざるを得ないらしい。



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