1982年8月29日にはIngrid Bergman(イングリッド・バーグマン)女史が癌で死去、この日は67歳の誕生日だった。つまり、あと半月も経たないうちにこの大女優の40回目の命日が来る事となる。
7年前=2015年には生誕100年を記念したドキュメンタリー映画「Ingrid Bergman - In Her Own Words」(イングリッド・バーグマン~愛に生きた女優~)がその実子達4人の協力の下で、製作・公開されている。


同女史は1999年に認定されたAFI's 100 Years...100 Stars=映画スターベスト100(AFI=American Film Insutitute)に於いては女優で第4位にランクされた。因みに女優第5位は「元祖グレタ」こと?Greta Garbo(グレタ・ガルボ)スウェーデンのレジェンドが2人並んで入っている。
(女優の1位はKatharine H. Hepburn、男優1位はHumphrey D. Bogart
100 Starsと言いながら、選ばれたのは男女25名ずつ計50名に留まっている。これが1999年6月15日にCBSの特別番組で発表された際に、そのプレゼンターが50名の現役俳優という事で合計して100人だから100 Starsで間違いはない。


Ingrid Bergmanなんてそれこそ牛馬犬猫の類でも知っているレベルの超レジェンド、当然ながらAcademy Award、Emmy Award、Tony Award、Golden Globe Awards何れも獲っている。スウェーデン生まれの彼女は2歳で母親を亡くし、12歳で父親とも死別。以降は叔父の下で過ごし、17歳でオーディションに合格し、18歳でデビュー。
本国スウェーデンでは若くして名を知られた女優だったが、1939年の映画「Intermezzo: A Love Story」(邦題=「別離」)でアメリカに進出。忽ちその際立った美貌と知性を以て、スウェーデン人でありながら「アメリカ人女性の理想」となりハリウッドを代表する女優の一人となった模様。
1941年には「Dr. Jekyll and Mr. Hyde」(ジキル博士とハイド氏)を始めとした3本のアメリカ映画に出演。


30代前半までに「Casablanca」(カサブランカ)、「For Whom the Bell Tolls」(誰が為に鐘は鳴る)、「Gaslight」(ガス燈)、「The Bells of St. Mary's」(聖メリーの鐘)、「Under Capricorn」(山羊座のもとに)、「Spellbound」(白い恐怖)、「Notorious」(汚名)、「Joan of Arc」(ジャンヌダルク)といった作品を代表作にしていた。又、ハリウッド女優の傍らブロードウェイ舞台女優としての顔も持っていた彼女は舞台にも数多く出演していた。

余談だが、イングリッドバーグマンの名を検索すると、候補に「身長」と出る。彼女はスウェーデン人という事もあって、1915年生まれだが、この世代の女性としても背が高かった=175㎝。

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この様にハリウッド女優として不動の地位を築いた彼女だったが、1949年にRoberto Rossellini(ロベルト・ロッセリーニ)氏の作品に出合い、翌50年に「Stromboli, terra di Dio」(ストロンボリ)に出演すると2人は不倫関係になって、男児(Robertino)まで身籠ってしまう。ロッセリーニ氏というと、欧州映画界では「Nouvelle Vagueの父」、「Neorealismoの巨匠」とも呼ばれる程の人物。

この不倫は当時のアメリカで大きなスキャンダルとなり、 アメリカ連邦議会上院でも二人の関係が非難されるなんていう事もあった。(Ediwin Johnsonという上院議員が2人を弾劾する演説を行った)
彼女自身はこの不倫について後に「人々は私にジャンヌ・ダルクを重ね合わせ、聖女のような人物だと思っていました。そうではないのです。私はただの女、普通の人間なのです。」と述べている。(修道女やジャンヌダルクを演じていたため)


この当時夫と娘がアメリカいた彼女だが、この不倫が原因でアメリカからは撤退。息子が生れると時を同じくして離婚し、メキシコに行ってロッセリーニ氏と2度目の結婚。1男2女(2女は双子)を設けて、長女は文学者のIsotta Rossellini(イゾッタ・ロッセリーニ)女史、次女は女優のIsabella Rossellini(イザベラ・ロッセリーニ)女史で、その娘はElettra Rossellini Wiedemann(エレットラ・ロッセリーニ・ヴィーデマン)嬢。

1950~57年の間にロッセリーニ氏は、「ストロンボリ」以外に「Europa '51」(ヨーロッパ1951年)、「Viaggio in Italia」(イタリア旅行)、「Giovanna d'Arco al rogo」(火刑台の上のジャンヌダルク)、「La Paura」(不安)という作品をバーグマン女史主演で作っている。

ただ2度目の結婚も長くは続かず、1957年には破局した。その翌年末に3度目の結婚をするが、1975年に3度目の離婚。これで結局3戦3敗?という事になった。
尚、最初の配偶者との間に出来た娘は、Pia Lindström(ピア・リンドストロム)女史で、83歳になる女優だが今も健在。


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2度目の離婚を前にした1956年にはフランスのコメディ映画「Elena et les Hommes」(恋多き女)に主演。更に同年、彼女はアメリカ映画に復帰し、「Anastasia」(追想)では主演女優を務めて2度目のアカデミー主演女優賞を獲得。その後も、「Indiscreet」(無分別)、「The Inn of the Sixth Happiness」(6番目の幸福)、「Goodbye Again」(さよならをもう一度)、「The Visit」(訪れ)、A Walk in the Spring Rain」(春の雨の中を)、「Cactus Flower」(サボテンの花)といった作品に出演。そして1974年に「Murder on the Orient Express」(オリエント急行殺人事件)でアカデミー助演女優賞を獲得。主演ではなく助演なのがミソだったりする。
ただ、この頃から彼女の体は癌に蝕まれて行く。1978年の「Höstsonaten」(秋のソナタ)が最後の出演映画になった。
1982年のTVドラマ「A Woman Called Golda」でイスラエル第5代首相だったGolda Meir(ゴルダ・メイヤ)を演じたのが遺作となった。彼女の乳癌は全身に転移していて、撮影の間にも病状はドンドン悪化して行き、本来ならドラマの撮影なんて出来る状態ではなかったが、その事を殆ど表に出さずにやり切ったという。そして最後の仕事となったドラマの完成から4ヵ月後に彼女は息を引き取った。
闘病は8年に渡った模様で、死去した地はロンドンだったが、荼毘に付された後の遺灰はスウェーデンに送られて、その大部分は同国西部の海岸付近に散骨された。残りの遺灰は両親の墓の隣に埋葬された。


次回=Chapter 45へと続く!



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