こんな事を何回も書きたくはないのだが、注意致したい事があるので、書かせてもらう。
当サイトではコメントは承認制を採用している。こんな板にもコメントが時折書き込まれるが、最近は到底承認出来ないものが続いていて悪質な悪戯と考えられるものも多い。そこで承認出来ないものの例を挙げると
◎ 記事に関係がない、若しくは関係が非常に薄い
◎ 事実に基づかず勝手な妄想や空想によって書かれたようなもの
◎ このサイトの品位を貶める可能性があるもの
◎ 内容が非常に稚拙若しくは幼稚なもの。その他、明らかに不適当な内容のもの
◎ 機械的にばら撒いたと思われるもの
こういう類のコメントは承認致しかねるので、そこの所には御理解頂きたい。悪戯、嫌がらせや荒らしの類は論外である。
小生にもブロガーとしての矜持とプライドというものがある


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1982年の主だった訃報を挙げて行くと、先ずは2月13日、これは江利チエミ女史の命日だった、享年45。この日午後、港区高輪の自宅でうつぶせ状態で倒れているのをマネージャーが発見したが、既に呼吸・心音とも反応がなく死亡が確認された。脳卒中を起こしたのに加え、吐瀉物誤嚥による窒息を起こし死んだとされる
永田町のあのホテルの大火災から5日後、逆噴射事件から4日後の事だったので、この大スターの急死はあまり大きな話題にはならなかった。


美空ひばり・雪村いづみ・江利チエミという御三方で「3人娘」と呼ばれていたのは主に1950年代。1953~68年まで16年連続で紅白歌合戦出場を果たすが、69年以降は一切無しだった。実は70年以降、NHKサイドからオファーが出た事も数回あったのだが、全て断ったらしい。
サザエさんの舞台版、実写映画で主演をしたのも有名だが、他には1963年に東京宝塚劇場で日本初のブロードウェイミュージカル「マイ・フェア・レディ」(My Fair Lady)の主演を張る等、歌手や女優としての実績はレジェンダリーなのは言うまでもない。
更には司会やクイズでも活躍していたのを記憶されている御仁もおられよう。クイズ番組では、「連想ゲーム」(NHK)の紅組2代目キャプテン、「象印クイズヒントでピント」(テレビ朝日)の女性軍初代キャプテンもこの人だった。


1959~71年の間は高倉健氏の妻だったが、離婚の背景には自身の異父姉による横領事件にプラスして子供を授かったが妊娠中毒症で中絶した事もあったらしい。

ファッション界では6月29日にPierre A. C. Balmain(ピエール・バルマン)氏が死去、享年68。
1945年、自身の名を冠したメゾンをパリで創設。創業時から、当時の機能的なファッションではなくフェミニンで洗練された大胆なスタイルを追求し、刺繍や細いウエスト、華麗なスカートで装いを演出(long bell-shaped skirts with small waistsなんて言われる)。パリのメゾンを象徴する様な究極の女性らしさは、すぐに欧米のセレブリティ達から人気を博したという。小生の幼少期、家にはこのブランドのタオルやハンカチ位はあった様な記憶がある。

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野球界のこの年の訃報というと、3月26日に水原茂氏が死去。死因は肝不全だったが、その葬儀は読売巨人軍球団葬だった。(2例目)
水原氏は1936~42年途中まで巨人軍でプレイ。その後は第2次世界大戦ではアジア大陸に渡り、その後シベリア抑留を経験(抑留なんてものではなくジェノサイド)した。1949年7月20日帰国して、4日後に後楽園球場に行き、巨人対大映戦の試合前、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」の名言と共に帰還をファンに報告したのは有名。その折に花束を渡したのは三原脩氏だった。
この時既に40歳になっていたが、読売本社からの要請を受け現役に復帰。しかし、その年の公式戦には出場せず、1950年に2リーグ制となり兼任監督となり、わずか7試合だが出場した。


1950年の巨人軍監督就任だが、これは選手達による前監督である三原脩氏へのクーデター(排斥運動)の産物であるというのが定説となっている。巨人軍監督を11シーズン東映フライヤーズ監督を7シーズン、更に中日ドラゴンズ監督を3シーズン務めた。
1951~53年及び55年は当り前の様にセントラルリーグ・日本シリーズ制覇。
1956~58年には三原氏を招聘した西鉄ライオンズに日本シリーズで3連敗、更に翌59年日シリでは南海ホークスにもスウィープでボコられて、4年連続日本シリーズ赤っ恥という災害を越えた一大不祥事をやらかしてしまう。(原何某も似た様なモンだが…)
1960年には三原氏が大洋ホエールズ監督になって、リーグタイトルを掻っ攫うと、水原氏は巨人軍監督を追われる事となったが、その際に「グラウンドの恥は、グラウンドでそそぐ」との名言を残している。


「恥をそそぐチャンス」は直ぐに巡ってきた。東映フライヤーズ監督就任である。12月8日にオーナー大川博氏に「金は出すが、口は出さない」と口説かれてフライヤーズ監督に就任した。弱かった同チームを立て直し、監督だった7年間全て3位以上、62年には日本シリーズ制覇も達成している。金は出すと言われたが、66年位から東映は金を出さなくなったという。67年11月25日に監督解任を通告された。
69年には中日ドラゴンズ監督となるが、この時代は言わずと知れた巨人軍V9の真っ只中、リヴェンジなんて到底出来なかった。順位は4位→5位→2位で71年限りで辞任し、与那嶺要氏に後を託した。(74年にV10を阻止)
水原氏はサインを書くのもマジックではなく、毛筆を使って書いていたという。1977年には殿堂入りを果たしている。


6月8日にはSatchel Paige(サチェル・ペイジ)氏が死去している、享年75歳
同氏は1906年生まれで1926年に20歳にてニグロリーグでデビュー。そこから1947年(41歳)までの22シーズンで約2500試合に登板、2000勝以上をあげ、シャットアウトは350回以上、ノーヒットノーラン55試合など、凡そ信じがたい成績が伝説というか神話の様に語られる。全盛期の球速は180㎞/hに迫ったと一説では語られる
恐ろしいのは、1947年にMLBに黒人選手が登場すると(Jack R. RobinsonBrooklyn Dodgersでメジャーデビュー)、その翌年にペイジ氏もCleveland Indiansからメジャーデビュー。驚く勿れ!この時の年齢は何と!42歳。1965年のMLB引退登板の際には59歳で、その日は3イニング投げて無失点だったというから、驚き桃ノ木である!
1971年にはSpecial Committee on the Negro Leagues(ニグロリーグ特別委員会・1971~77)によってNational Baseball Hall of Fame(HOF=アメリカ野球殿堂)に列せられた。


この年、11月10日には広島カープ初代監督・石本秀一氏が死去した、享年85歳。
石本氏は1897年(まだ19世紀だった)広島市の生まれで、旧制広島商業高校在学時には、全国中等学校優勝野球大会(全国高等学校野球選手権大会の前身)に2年連続出場。その後は旧制関西学院高等部商科に進むが中退。満州に渡り、大連の三井物産保険部に勤務し、同時に大連実業団で1923年まで野球を続けた。

一旦は新聞記者に転ずるが、1924年に広島商の監督になると、超スパルタ練習+精神論(根性)野球、日本刀の刃渡りなんてアタオカなノリで21世紀の今なら完全にアウトだが、これはあくまでも戦前の話。同氏は小技で取った1点を堅い守備で守り切るという戦術で「広商野球」の基礎を作り上げ、10年足らずの広商監督時代で同校を全国区の名門に押し上げた。
根性論精神論の塊の様に言われる石本氏だが、実際は対戦相手への研究・分析を徹底して、練習の時から取り組んでいたと言われている。


その後は再び新聞記者に復帰したが、職業野球の第1回リーグ戦が開かれた1936年に大阪タイガース監督に招聘された。そこでは所謂ダイナマイト打線の基礎を築いた。1937年11月には職業野球東西対抗戦(現在のオールスターゲームの前身)第1回大会の西軍の監督を務めた。それ以降、戦後まで職業(プロ)野球の監督を彼方此方で歴任する。

そして1950年、2リーグ制施行に伴い、地元広島にプロ野球球団=広島カープが爆誕する。広島の初代球団代表だった河口豪氏に対し「郷里の球団で最後の花を咲かせたい」と石本氏の方から売り込みがあったという。当時53歳の石本氏は広島に於ける大ヒーローであり、地元民は監督就任を双手をあげて歓迎した。
1年目に白石勝巳氏(事実上、監督代理でもあった)、長谷川良平氏(初代エース)を入団されるが、50年のシーズン中は専ら金策に奔走せざるを得なかった。しかもこの年のリーグ優勝は前年まで石本氏が指揮を執っていた松竹ロビンスだったというオチまで付いた。


結局1953年まで広島監督を務めて、53年には小鶴誠(元松竹)氏等を入団させるが球団幹部と対立して結局退団、翌54年から55年は西鉄ライオンズヘッドコーチに。その後は解説者になったが、1961・62年は中日ドラゴンズでヘッドコーチになり、1966年にはヘッドコーチとして広島のユニフォームを1シーズン着た。その後は再び評論家等として活動し、1972年に殿堂入りした。

中日・ロッテの監督を歴任した濃人渉氏(広陵高校出身)に対しても、野球指導においては多大な影響を与えている。(中日時代は監督とコーチで仕事をしていた)
スピードボール対策で、投手をマウンド1歩手前から投げさせる練習は今は良く行われるが、これを初めて行ったのは1937年の石本氏だったと言われる。

次回=Chapter 44へと続く!



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