今年に大きな記念の節目を迎える人や出来事・物をフィーチャーする、「2022年、大きな節目」も大台のChapter 20に到達したが、では何時完遂するの?と言われると、「I Don't Know」「知らん!」としか言えない。(草叢

去る1月30日北アイルランドでは、カトリック系住民の公民権デモをUK治安部隊が弾圧した1972年の「Bloody Sunday」から丁度50年を迎えた。カトリック系住民への不平等(差別)撤廃を求めて行進していたデモ参加者13人が射殺されたLondonderry(ロンドンデリー=カトリック系住民は単にDerryと呼ぶ)では、数百人が集まっての追悼行事が行われ、遺族が法の正義の実現を訴えた。行事では当時のデモのルートを参加者達が犠牲者の遺影を手にして行進。アイリッシュフルートの調べが響く中、慰霊碑の前で犠牲者の名前が読み上げられた。(その場で射殺され即死したのは13人、1人は即死ではないが撃たれた4ヵ月後に死亡)更には当時のデモ参加者らも歌った公民権運動を象徴する歌「We Shall Overcome」(アメリカ公民権運動でも御馴染)の合唱等、音楽や詩もささげられた。
追悼行事は毎年行われているが、今年は初めてアイルランド首相が出席、Micheál O' Martin(ミホル・マーティン)氏が慰霊碑に献花した。


U2のBono・The Edge両氏は、「Sunday Bloody Sunday」(前々記事参照)のアコースティックヴァージョンをこの日に合わせてSNSで公開した。出席した遺族の一人、Michael McKinney(マイケル・マッキニー)氏は、英政府は裁判で新事実が明らかになってしまう可能性がある為、事件に関与した元イギリス兵の訴追を認めようとしないとUKの司法を批判した。

UK政府はBloody Sunday Inquiry(Saville Inquiry)による再調査(1998開始だが12年も掛かったのが不思議である。)で2010年6月15日、「犠牲者は武器を持っておらず、発砲は命令違反だった」と結論付ける報告書を発表し、当時のDavid Cammeron首相が議会で歴史的な謝罪をした。2019年には発砲した英軍の空挺隊員1人が殺人罪で起訴されたが、検察は昨年に有罪判決の見込みが乏しいとして起訴を取り下げた。
(ここまではJIJI.com・2月1日の記事を基にして書いた。)


因みに、読み上げられた犠牲者の名はJohn Duddy・Patrick Joseph Doherty・Bernard McGuigan・Hugh Pious Gilmour・Kevin McElhinney・Michael Kelly・John Pius Young・William Noel Nash・Michael McDaid・James Joseph Wray・Gerald Donaghy・Gerald McKinney・William McKinney・John Johnson
これ等の名は現地の慰霊碑にも記載がある。この犠牲者14人の内、過半数8人が20歳以下、20代が2人という訳でその大部分が若者だった。これって2019~20年の香港で、若い男女が抗議行動の前面に立って弾圧された姿と、思いっ切りガチャコーン!と接続してしまう。
コレ、2022年の日本からしても、遠い国で50年も前に起きた事なんて言って片付けられない。

UKの現首相(第77代)=Alexander Boris P. Johnson氏は式典の日、「過去から学び、和解し、北アイルランドの人々のために平和な未来を作らなくてはならない」という旨のTweetを行った

sugieri@honjo001  sugieri@honjo002
St. Patrick's Dayは今や日本でも春の風物詩として定着。モデル=杉絵里香・2016年3月撮影

1972年の血の日曜日事件を超簡単に言うと、同年1月30日、北アイルランド北西部のLondonderryにおいて、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃された事件。これで14名死亡、13名負傷。事件のあった地区の名を取ってBogside Massacre(ボグサイドの虐殺)とも呼ばれるが、事件の内容からしてこちらの呼び方をすべきであろう。

北アイルランド紛争は1960年代終盤辺りに始まり、1998年頃までの約30年続いたが、21世紀の今でも対立は根深く続いている。プロテスタント系住民対カトリック系住民という対立に火がついて、双方の民兵組織がテロ攻撃や暴力事件を繰り返した。事態鎮圧のために入ったUK軍や警察も抗争に巻き込まれ、この紛争で約3700人が死亡したとされる。この紛争初期の大きな事件の1つが72年・血の日曜日事件だった。デリー市内では事件発生の1972年、紛争での犠牲者は500人とも言われる

北アイルランドでもデリーはカトリック系住民の比率が高い。カトリック系住民による公民権運動は、1960年代以降、活発化する。その中心となったのが、住民の大多数がカトリックにも拘らず、プロテスタント系の支配層から様々な差別を受けていたデリーの街だった。
因みに現在、デリーではカトリック=約2/3、プロテスタント=約1/5、残りはその他という構成だが、北アイルランドでの構成はカトリック・プロテスタント共に約45%、その他が約10%。アイルランドでは(北以外)カトリックが78%程度でプロテスタントは4%程、残りが無宗教その他という具合である。


少数派だったカトリック住民が公民権運動に力を入れ、次第に存在感を拡大していく一方で、プロテスタント住民は自分達の支配的地位が脅かされると感じる構図があったとされる。プロテスタント側はアイルランド島から折角引っぺがした北東部の6州でもカトリックが侵食してくるのは絶対にNOである。カトリックサイドからしたらプロテスタントこそこの島を不当に侵略して、領土も芋も富もそれこそペンペン草も生えないレベルで略奪収奪している(そこはさすがUK!)永久に許せない敵である。

1968年、デリー市で行われた初の公民権運動のデモは地元警察に鎮圧された。69年にはボグサイド地域での暴動が3日間続いた。「ボグサイドの戦い」なんて呼ばれる。カトリック住民がバリケードを築いて、街の中心部をぐるっと囲む城壁の内側に立てこもり、封鎖解除をはかる警察と対峙、ついに守り抜いた。この事件は催涙ガスが多用された世界で初のケースで、警察は住居密集地で1000発以上の催涙弾を撃ったという。

北アイルランド紛争のゴングは鳴っていたが、この時点で、カトリック住民対プロテスタント住民+地元警察という対立構図になり、そこに加えて暴動鎮圧のために北アイルランドに派遣されたイギリス軍が加わった。無論、軍はプロテスタント側である。UK軍からすれば、カトリック住民=IRA=テロリスト=UKの敵だった。

1971年、北アイルランド自治政府は、暴動を抑えるために、裁判を経ずに容疑者を拘禁し逮捕状なしに逮捕する独裁国家紛いな政策を導入したが、事態は案の定却って悪化した。年が明けて1972年1月18日、自治政府は北アイルランド内での全ての抗議運動やデモを禁止した。
その12日後、冬晴れの日曜日だった30日、公判なしの拘禁に抗議するデモデリー市民約1万5000人が参加した。社会民主労働党(SLDP)を率いていたIvan Averill Cooper(イヴァン・クーパー)氏がこのデモを指揮していた。
14:45、中心部から西に行った所の高台にあるCreggan(クレガン)を出発して、東に進みフォイル川沿いで市の中心にあるGuild Hall(ギルドホール)広場に向っていた。しかし、広場にはUK陸軍落下傘連隊がバリケードを構築してデモ隊の進入を阻止していた。主催者はデモ隊のコースを急遽変えようとしたが、一部の参加者が軍隊に投石を始めた。軍はこれにゴム弾や催涙ガス、放水で応戦。デモ隊はBogsideに追い立てられて、そこで兵士達による銃撃を受け、市民14人が次々と惨殺された。
(恰も共産主義圏や独裁国家みたいな話だが、これが自由主義圏民主国家でも50年前では起きていたのだ!)


次回=Chapter 21へと続く!



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