2022年、大きな節目」もChapter 19という事で、大台のChapter 20到達まであと1歩になった。

血の日曜日事件」と呼ばれる事件は19・20世紀で10回以上起きている。
その中で今の所最後(最新)になるのは、1991年1月11~13日にリトアニアで起きた事件で、現地では1月13日事件と呼ばれる。リトアニア市民が同国国旗を手に旧ソ連の戦車の行手を塞いだ写真が今でも有名なアレである。ゴルバチョフ政権のソ連軍がリトアニアに侵攻して、放送局やテレビ塔を占拠。非武装の市民14名が死亡し、700人が負傷した。前年にV. ランズベルギスを最高会議議長とするサユディス政権が独立を宣言した事に対する報復だったが、これをきっかけにリトアニア独立を支持する動きがヨーロッパに広がった。同時にソ連崩壊への流れが加速する端緒にもなった。


10数回起きた「血の日曜日事件」を挙げて行くと、1887年ロンドンで起きた事件。1900年・ボーア戦争に伴って南アフリカで起きた事件(これもイギリスが絡んでいる)。

1905年1月、当時のロシア帝国はサンクトペテルブルグで起きた事件の有名。
この事件は所謂ロシア第1革命に繋がった。教会司祭で独自の労働者組織を設立していたG. A. Gapon神父が搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の要求を代弁した請願の行進とストライキ(ゼネスト)を計画しすると、ストライキには11万人程が参加したとされ、1905年1月9日には60000人程が参加してのデモ行進が挙行された。当局はデモを中心街に入れない様に軍隊で防御しようとしたが、60000相手では成功せず、結局軍隊は彼方此方で非武装のデモ隊に発砲。犠牲者は4桁になり、事件後に市内各所で暴動と略奪が行われたという話もある。これからロシア各地で抵抗運動が勃発し、同年10月にはモスクワ・サンクトペテルブルグでゼネストが展開される事となる。この年の第1革命の後もツァーリが権力を、貴族が富を握る体制は変わらず、ロシアは1917年の2月革命に傾れ込んで行く。


1913年のアイルランドダブリン・ロックアウト(Dublin Lockout)に伴って起きた事件。Dublin Lockoutとは1913年8月~14年1月の間に起きた大規模な労働争議で、組合結成の権利を求めた20000人の労働者対300人の雇用者という図式の非常に深刻な紛争になった。この時代のダブリンの労働者の生活環境は劣悪で結核も蔓延して死亡者も多かった、そんな背景もあったらしい。

その7年後、1920年11月にも血の日曜日事件が起きた。イギリスのスパイ網=Cairo Gangのメンバー・協力者達13人がIRAに殺害された。午後にはCroke Park massacreで英国の武装警察部隊RICが無差別発砲を起こし14人が死亡し、その後IRA義勇兵3名が、捕虜として収監されていたダブリン城において拷問されさらに射殺されるという事件も起きた。

1939年9月にはポーランドでも血の日曜日事件が起きた。1日にナチスドイツがポーランド侵攻を開始していて、その2日後の3日=日曜にBydgoszcz(ブィドゴシュチュ・ドイツ語ではBromberg)で、ポーランド軍部隊が移動の為現地を通過中にドイツ系住民の自衛団が兵士や周囲にいた市民達に向って発砲し、これにポーランド軍側も応戦。兵士達や一般市民達総計600人程度の犠牲者が出たとされる。これはナチスの執拗なプロパガンダに利用され、ブロンベルク血の日曜日事件(Der Bromberger Blutsonntag)と呼ばれた。
その1週間後にはナチス側の報復が行われ、3000人程のポーランド人を広場で虐殺したのを手始めに、最終的には数万人規模のジェノサイドがポーランド人に対して繰り広げられた。更にはこれに加えて13000人程のポーランド人を絶滅収容所送りにしている。


1944年12月にはギリシャでも血の日曜日事件があった。(12月事件・Dekemvrianaとも呼ばれる)12月3日、アテネで左派組織と親英派政府・駐留英軍が衝突した事件で、その後のギリシャ内戦にガチャコーン!と接続して行く。


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アイルランドといえば、St. Patrick's Day、モデルはうてなまりえ=2016年3月撮影、当時はまだ20代

1965年のアメリカでもBloody Sundayがあった(正式にはSelma to Montgomery Marchesというらしい)。アメリカの公民権運動中にアラバマ州セルマで起きた事件。3月7日、600人程の公民権運動家達がセルマからモンゴメリー(州都)に行進しようとしたところ、州知事の命令で州兵・保安官達が無抵抗のデモ隊に対して棍棒・催涙ガス・鞭等を使って追い返し、重傷を負って血だらけで倒れる人達が続出するという光景がTVで流された。

1969年にはトルコ・イスタンブールにアメリカ海軍第6艦隊が来航した際、帝国主義・植民地主義に抗議するために催された集会及び示威行進を鎮圧する際に起きた騒乱事件。

血の日曜日事件は欧米だけではない、アジアでもタイ王国で1973年に起きている。
当時首相だったタノーム・キッティカチョーン(Thanom Kittikachorn)強権独裁政権に抗議して、学生等が民主化・政治犯13人の解放を求めてデモを起こした。当時のタイは経済低迷+深刻なインフレで国民生活は困窮し、不満は募り我慢の限界を超えつつあった。同年10月13日早朝から大規模デモが開始されたが、その後に軍がデモ隊に発砲し70人以上の死者が出たとされる。そしてその日の夜、タノーム内閣退陣とタノームが2日後に出国すると報道され、新しい首相に任命されたサンヤー・タンマサック(Sanya Dharmasakti) 氏がラジオ放送にて「出来るだけ速やかに民主憲法を発布し、現在から6ヶ月以内に総選挙をする」と演説して、事態は一応収まった。
同国ではこの3年後に又もやクーデターが起きて、「血の水曜日事件」が勃発している。


色々あるBloody Sundayだが、真打といえばやはり、1972年1月30日にロンドンデリーで起きた、北アイルランド紛争に伴って起きたあの事件という事になるのであろう。12の「血の日曜日」の内、3つはアイルランドで起きている。アイルランド近現代の血塗られている部分が非常に目立つのだろう。

ここでだが、この日本には血の日曜日事件の類がないのか?という疑惑が、ドボドボドボドボ…。
候補としては、2008年6月8日に起きた所謂「秋葉原通り魔事件」が挙がるだろう。この日は日曜日であった上に、事件のインパクトからしても日本のBloody Sundayとも呼べる事件かも知れない。確かに規模自体は非常に小さい、銃器も出て来ない。もしもこの加藤事件がAK47あたりの乱射で犠牲者数も軽く2桁に届いていたら血の日曜日事件の仲間入りしていた可能性はあったのか?
犠牲者数の問題と言うより、これが極個人的な犯行で、政治や宗教の対立闘争とは殆ど無縁の出来事であったから、この仲間には抑々が入れないのかも知れない。


でもあれから14年、この国に大量に入り込んでいるチョンシナロスケその他反日勢力が自動小銃乱射の様な暴力武力闘争を、この国を侵略し日本人を虐殺殲滅するプロセスとして何時仕掛けて来ても不思議ではない。そのカウントダウンが始まっていると考えなければならない。世界最悪の「Bloody 何某」が日本で今年にでも起きる可能性は非常に高いのである。

次回で遂に「20」の大台に届くので乞う御期待、という事でChapter 20へと続く!


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