やるなぁ、リトアニア!、でもこれは意外じゃない!

リトアニアというと「バルト三国」=Lithuania、Latvia(ラトヴィア)、Estonia(エストニア)という以外、あまりイメージが湧かないかも知れない。でも、この小国は結構凄い!
面積は65000㎢程=東北地方やスリランカとほぼ一緒、人口は272万人なので大阪市や広島県より若干少なく、新宿駅一日の乗降客数に対して79%程度しかない。
そんなリトアニアはチュウ獄から制裁され虐められても、一歩も引かないその旗幟鮮明なる凛としたアティテュードに世界から注目が集まっている。ここで先ずは、リトアニアという国の歩みを大雑把に書いて行く事にしたい。
この国、立憲主義政治という部分で凄いのだ!
1791年に成立したポーランド・リトアニア共和国時代の「5月3日憲法」(ポーランド語でKonstytucja Trzeciego Maja)は近代成文国民憲法としてはヨーロッパで最初のもので、世界でもアメリカ合衆国憲法に次ぐ2番目のものとして知られている(それも僅か4年の差)


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現在のリトアニアの地域に人が住み始めたのはBC10000年辺りと言われる。
Lithuania=リトアニアの名が初めて書物に記されたのは、1009年ドイツのクエドリンブルグ(Quedlinburg)史記であった。
1236年の戦いでバルト人は度重なるドイツ騎士団の侵攻を食い止め、この地域でMindaugas(ミンガウダス)が最初の統一を成し遂げリトアニア大公国(リトアニア語でLietuvos Didžioji Kunigaikštystė)を成立させた。その後もモンゴルやドイツ騎士団の侵攻を受け続けたが、ポーランドとの友好関係を結んでこれ等の侵攻を撃退する事に成功した。


13世紀末にはGediminas(ゲディミナス)が国を掌握し、実質上の皇帝の座もゲットだぜ!となる。ゲディナミス家はハプスブルク朝やルクセンブルク朝と並ぶレベルの地位を築いた時代もあった。14世紀には現在の首都でもあるVilnius(ヴィリニュス)を築いた。15世紀初頭のVytautas(ヴィタウタス)大公の時代には、勢力を現在のベラルーシやウクライナに当る所まで広げた事もあった。中世~近世に於いてはリトアニア・ポーランドの一体化は進んでリトアニア大公国・ポーランド王国国家連合→1558~83年のLivonian War(リヴォニア戦争)を機に、1569年のルブリン合同で両国は制度的合邦を果たし、ポーランド・リトアニア共和国を成立させる所まで行ったのである。
因みにこの戦争ではデンマーク・ノルウェー・スウェーデン・ポーランド・リトアニアが、ロシアツァーリ国・モスクワ大公国を下した。


それから約200年後、1772~95年の間に3回に渡る「ポーランド分割」を受けて、ポー ランド・リトアニア共和国はロシア、プロシア、オーストリアに分割されて消滅してしまう。これはリトアニアが拡大するロシア帝国の餌食となってしまった事を意味する。カトリックは排除され代わってロシア正教が導入され、各地の地名も変更させられた程だった。リトアニア文字も一切禁止され、キリル文字の使用が強制された(1864)。リトアニア再建を目指して18~19世紀には数回の反乱が起きるが何れもロシアに難なく鎮圧されてしまう。19世紀末には力強いナショナリズム民族運動が生まれ、独立国家を求めるリトアニア人の民族意識が一気に高まった。

第1次大戦とロシア革命の混乱を利用する様な形で1918年、独立を宣言した。1917年9月18~22日、222人のリトアニア人がヴィリニュスに集結した(ヴィリニュス会議)。そこでリトアニア共和国初代大統領となるAntanas Smetona(アンタナス・スメトナ)を議長とするリトアニア評議会(Lietuvos Taryba・タリーバ)の議員20名が選出された。タリーバは12月11日、リトアニア人国家建設に関する宣言を採択し、翌1918年2月16日に完全独立を宣言。1920年にはリトアニア共和国として民族自決による独立が諸外国から承認された。首都である筈のヴィリニュスはソ連傀儡のリトアニア・ソビエト社会主義共和国だったので、Kaunas(カナウス)が臨時の首都とされた。

しかしこの後ポーランドとの関係が悪化、軍事紛争が起こってしまい両国の国交も1938年まで断絶。リトアニアは何とかポーランドからの独立を維持したが、首都ヴィリニュスを含む東部はポーランドに奪われた。ソ連邦に併合を喰らうまでの間には文化と教育が発展し、その最も優れた業績は、文盲率が殆どゼロになった事である。

1939 年、Adolf Hitler(A. ヒトラー)とJosif V. Stalin(有田芳生じゃなかった、ヨシフ・スターリン)はモロトフ・リッベントロップ協定=独ソ不可侵条約(German-Soviet Nonaggression Pact)を結び、それによってソ連はリトアニアに相互援助協定を結ばせてソ連赤軍を受け入れさた。同年9月にドイツ・スロヴァキア・ソ連の3ヶ国がポーランドを侵略すると、リトアニアはポーランドに奪われていたヴィリニュス周辺を奪い返す事に成功した。

翌1940年6月、ソ連はリトアニアにソ連と協調する政府を作って赤軍がリトアニアに自由に駐留することを認めさせ、15万のソ連赤軍が侵入して来た。これで大統領A. スメトナはドイツ経由でアメリカに逃亡する破目になり、Antanas Merkys(アンタナス・メルキス)が第2代大統領になった。7月にはリトアニア共産党の候補しか立候補できない選挙が行われた(何しか香港みたいやねぇ…)。そして、その結果を受けた人民議会が開かれて、リトアニアの国名を「リトアニア・ソビエト社会主義共和国」とすることを決定し、ソビエト連邦への加盟を満場一致で宣言した。
8月3日、リトアニアは、ソビエト連邦構成共和国の一つとなった。駐カウナス日本領事だった杉原千畝が、ユダヤ人に大量のビザを発給したのはこの月。


その後、ソ連赤軍は一時退去するものの、入れ替わってナチス陸軍が侵入して来た。独ソ戦が1941年6月に始まるとリトアニアは再度独立を宣言するも、独立した新政府はナチスドイツによって2ヶ月程で解体される。ナチスはリトアニアでもホロコーストを行って、20万人のユダヤ人を虐殺したとされる。ソ連はナチスを追い払いリトアニアも解放されるかと思われたが、結局ソ連に支配される破目となる。1944年にソ連軍は再びリトアニアを占領、1945年のヤルタ会談・ポツダム会談で英米にリトアニアがソビエト連邦に加盟する共和国であることを認めさせた。1953年までのスターリン政権下でリトアニア人のシベリア追放が進められ、12万人以上のリトアニア人が追放を喰らっている(公式統計による)。これに合わせてロシア人のリトアニア入植が進んで行った。

それから約40年、1985年にMikhail S. Gorbachev(ミハイル・ゴルバチョフ)政権になって、伝説のペレストロイカ(перестройка・perestroika)が始まると、ソ連は崩壊に向けて加速する。エストニアでは、1988年に民族運動組織のSąjūdis(サユディス)がスタートして、バルト3国が連携して独立運動を進めて行く。翌89年には独ソ不可侵条約50周年に合わせて、バルト3国首都を結んで600㎞に渡る人間の鎖が作られて世界に独立を訴えた。1990年、共産党員でないサユディスのVytautas Landsbergis(ヴィータウタス・ランズベルギス)氏が最高会議議長になり、同年3月11日に独立を宣言。

しかし1991年1月(世間は湾岸戦争の方に眼が行っていた)、血の日曜日事件が起こる。ゴルバチョフ政権下のソ連軍がリトアニアに侵攻しては放送局やテレビ塔を占拠。非武装の市民14名が死亡し、700人が負傷した。この時の議会周辺の模様は日本のTVでも後日放送されたので、覚えておいでの御仁もおられるか?

その後8月19日、ソ連でクーデター(未遂)事件が起きる。「8月19日の政変」(ロシア語ではАвгустовский путчらしい)と呼ばれる事件で、副大統領だったGennadii I. Yanayev(ゲナンジ・ヤナエフ)がゴルビー政権を倒そうとクーデターを仕掛けるが、Boris N. Yeltsin(ボリス・エリツィン=ロシア連邦共和国大統領になったばかり)を始めとする市民達に阻まれて、アウトになった。ヤナエフ同様完全にOUTを宣せられたのはソ連共産党であり、同月28日には同党の活動が全面停止と決定された。

その翌月6日、独立をソ連も承認して名実共に再独立を成し遂げた。1991年9月17日、リトアニアを含むバルト3国は揃って国際連合に加盟。翌1992年に総選挙でリトアニア民主労働党が勝利しサユディスから政権を奪取。これで最高会議議長はV. ランズベルギス氏からAlgirdas M. Brazauskas(アルギルダス・ブラザウスカス)氏に交替。1993年には大統領制に移行し、A. ブラザウスカス氏が就任。1998年大統領選挙で勝利したValdas Adamkus(ヴァルダス・アダムクス)氏が後継の大統領になる。(~2009)

このアダムクス政権下では2001年にWTOに加盟し、2004年にはNATOおよびEU加盟を果たす。2008年にはソ連邦標章・ナチスドイツ標章共々公の場で掲げる事を禁止する法案を議会が可決した。その禁止の対象には「鎌と槌」や「赤い星」を模った旗やバッジの他、ソ連邦の国歌の演奏も含まれるという。その理由として、ナチスとソヴィエトによる圧制、特にソ連によるリトアニア併合を「占領行為」と看做している事があるらしい。

この記事はリトアニアの歴史を大まかに書くだけになってしまったが、「チュウ獄から制裁され虐められても、一歩も引かないそのアティテュードで世界から注目と評価を集めている」その背景と理由は次のPart 4で述べたい。

この記事は、駐日リトアニア共和国大使館公式Web、及川幸久氏、Baltic Asia、その他諸々のソースを参考にして書いている、悪しからず。
※ この記事から「humanrights」「Europe」という新しいタグを入れてみた。




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