Part 5で取り上げた神戸市の住吉山手エリアも「天空の城」の様ではあるが、西宮でも天空の城の如き絶景スポットというべき所がある。天空の城でもマチュピチュにはなっていないのが、亀岡あたりのアレとは大きく違う、比較にはならない。それが鷲林寺南町・鷲林寺町・剣谷町・甲陽園・粕堂町・粕堂西町といったエリアである。剣谷町はゴロゴロ山(高さが565.6mの為)こと剣谷山の麓である。
甲陽園には目神山町という所があるが、目神は女神が変化したものとされる。その女神とは伊邪那美大神(伊邪那岐大神秘神)と瀬織津姫(天照大神の秘神とされる)だったと言われる。


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苦楽園口駅の東サイドでニテコ池の畔には名次神社というのが所在する。Part 7で取り上げた越木岩神社は駅から北西に2㎞程離れた山の麓だが、名次神社は駅の北東に500m程度の名次町の中にある。今の場所に所在する様になったのは1908年。名次山の中央部から現在地へ移ったというが、名次山の中央部の正確な場所が不明である。そして祭神も何故か不明。弥生時代はこの辺りに海岸線があったらしい。苦楽園口駅と廣田神社を結んだ線の1/3の様な所に名次神社が存在する。廣田神社・名次神社は本社と末社の関係だったが、その間が中世から緊密になったという。1878年に名次神社廣田神社摂社と定められた。

名次町は万葉集に「吾妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ」(高市連黒人)と詠われた名勝・名次山の地で、松下幸之助の邸宅=光雲荘があった(1939年建立。)場所でもある。
尚、光雲荘は1998年、枚方にあるパナソニック人材開発カンパニー敷地内に移築され現在は社員の研修施設になっている。
松下氏は自邸の建築に当って大変情熱を注いでいて、設計コンペを開催され広く設計案を募集したそうだ。松下氏が欧風建築好みだったので、欧風様式の作品案が数多く寄せられたが、「建築する事で、人の為、世の為になりたい」と、コンペ開催後に考えを改められ、松下氏は300年先には日本建築が見直されると見越して3年掛けて建てたという。
「今後おそらく300年も先には、この当時の日本建築というものがいろんな形において、いろいろ吟味されたり参考にされたりするだろう。そのときに、充分参考に供されるような建物を建てておきたい」と生前に語っていた。又、「住まいは、住む人の品格を表わします。贅沢が過ぎてもいけないし、かといって貧相でもなく、自分に相応しいものを造って下さい」と注文を付けていたらしい。
前出のニテコ池を松下氏は生前はよく散歩する等、愛でていた様だ。序だがこの池は「火垂るの墓」の舞台の一つでもある


松下氏が創設したものに松下政経塾(正式名称=公益財団法人松下幸之助記念志財団松下政経塾、英名=The Matsushita Institute of Government and Management)がある。1979年、次代の国家指導者を育成するべく私費70億円を投じて神奈川県茅ヶ崎市に設立した公益財団法人が松下政経塾である。
同塾は既に野田佳彦という総理は輩出しているが、最低と最悪の総理の尻拭いも真面に出来たとは言えなかった。しかし2021年、同政経塾出身者の一人である高市早苗女史が自民党総裁選に進めて勝つ事が出来れば、この塾の評価も大きく変わる光が差すかも知れない。
何せガースーがあの調子なので勝ち目はあると言いたいが、今回についてはあくまでも次期総裁候補に名乗りを上げるための下地作りが出来れば良いと考えるのが妥当。60年代生まれ初で尚且つ初の女性総理になるのは高市女史を置いて他に無いと言いたいが、彼女が所属する清和会はガースー支持を現時点で打ち出している。
NHKをブッ壊し且つ真面な保守になり得る彼女に寄せられる期待は大きい。そういう彼女も若い時は左回転だったが、そこから保守寄りにチェンジして行った。保守を謳いながら完全にリベラル化した稲田朋美の逆ルートとも言える。
裏を返せば、候補者に真面な保守が殆どいないという左傾化しまくった自民党の惨状をも示しているのだが、これで初の女性総理が「緑のBBA」とか「左傾化ともちん」という可能性が殆ど無くなったとすれば一安心か。


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芦屋から全国区、Henri Charpentier=アンリ・シャルパンティエのザッハトルテ

苦楽園は地図を見ると、南側から六番町→五番町→一番町→四番町→二番町→三番町という判り難い順番になっている。又標高の高い所は嘗てはラジウム温泉の出る温泉地でもあったという。湯川秀樹は1933年から苦楽園に居住し、中間子論を着想し1949年のノーベル物理学賞受賞につながる。苦楽園の温泉は1930年代に入る頃には湯量が減少して1938年の大水害で決定的打撃を受けて温泉地としての歩みはThe End。
苦楽園に隣接するのは松ヶ丘町というのがある。西宮市には松の付く地名は結構多い。松ヶ丘町は苦楽園口駅から徒歩10分という知る人ぞ知る屋敷街で坪単価は100万以上、実際に家を建てるとなれば80坪以上になって値段も1億円以上となる。


こういう所謂高級住宅地では建築のルールが厳しかったりする。建築基準法の様に全国一律で定められたもの以外に、建築協定の地域住民の間で決められたローカルルールがあって、それが厳しい所も多いのである。甲陽園は9つの区域からなるが、西山町は1938年に出来たが、その一部区域では建築協定がある。

この甲陽園西山町には世界で唯一のアンネ・フランクを記念した教会がある。アンネ・フランクを記念した建物というと福山市のホロコースト記念館が有名だが、こちら西宮にあるのはAnne's Rose Church=アンネのバラの教会と呼ばれる建物でその設計はW. ヴォーリズである。福山の記念館西宮のバラの教会聖イエス会(プロテスタント系・本拠は京都市)の運営である。
1971年4月4日、聖イエス会・しののめ合唱団がコンサ-トのためにイスラエルにいた。ナタニアという町のレストランで昼食を摂っていると、一人の老紳士が話しかけてきて、「私はユダヤ人ですが、オランダ市民でもあります。私はナチスによる迫害を経験した者です。皆さんは私の娘の書いた日記を読んだことがおありでしょう。私は、アンネ・フランクの父(アンネの日記を1947年に出版したオットー・フランク=Otto Heinrich Frank)です。」と言った。以後、フランク氏が1980年8月に永眠するまで聖イエス会との交流は続き、アンネ生誕50周年の1979年にこのバラの教会の建設が始まり、O. フランク氏が没する直前の1980年4月に献堂された。
教会内は隠れ家の屋根裏部屋をイメージし、祭壇にはオットー・フランク氏から贈られた燭台が置かれているという。庭園には、アンネのブロンズ像を中心に50株のアンネの形見の薔薇が植えられ、開花シーズンには企画展示が行われているそうだ。その教会にはアンネ・フランク資料館もある。
因みに、オットー・フランク氏の生誕100年=1989に天安門大虐殺が起きた。この大虐殺を「天安門事件」なんて呼ばせているのは〇〇一郎以下、おびただしい数の媚中な国賊達の圧力が関わっているのは間違いない。


甲陽園は坂のキツイ所が多く、何せ六甲の麓なので、猪等の野獣が結構頻繁に出没するらしく、その野獣の糞が落ちている事も多いという。

てなわけで、Part 9へと続く!



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