1970年に新快速が誕生して10年後の1980年、3代目の117系が投入される。
117系185系は親戚に当る。関西の117系は料金不要の近郊型として生を享けて賞賛を得たが、関東の185系は急行用だったのが東京の本社の意向で遜色ぼったくり特急形となり世の顰蹙を買いまくった。


117s4@mesc01
117系のこの姿はもう見られない

足回りは特急形の台車+制御器は381系のアップグレード版+その他は115系アップグレード版。外見は157系の発展型だが、フロントに4灯式ライトで中央部にタイフォンが備わる独特なもの。そして嘗ての関西急電を模したカラーリング。
内装が近郊型のレベルではなかった。転換クロスシートで吊革無し、蛍光灯はカヴァーされ内壁は木目調という具合に、競合相手を意識して当時の国鉄としたらギリギリの勝負をしたのではないかと思われる内容である。
大阪鉄道管理局だからこそここまでの意地を見せたと思われる。185系なんて駄作を作る様な東京の本社とはエライ違いである。

そして、1987年に国鉄はばらされて民営化されたが、今から思えば国民がグローバリストとその手先どもに騙されたティピカルな例である。(詳しくは割愛するが)分割民営化なんてあんなバカげたやり方しか選択肢が無かったとは到底思えない。

そんな117系だがその天下は決して長く続かなかった
登場から10年に達する辺りで陳腐化していたのである。高速化と同時に地域輸送の充実化を狙っていたJR西日本、1980年頃に確立されていなかった新しい技術もドンドン実用化されて鉄道車両も新しいステージに入ろうとしていた。機械的には古い技術の焼き直しで作った117系は最高速度110㎞/h、両開き2ドアでデッキこそないものの乗降に手間取る。
新快速の運行形態にも変化は起きていて、運転区間の拡大と停車駅の新設が少しずつ起きていた。1978年に神戸、1985年に新大阪、1986年に山科に停車開始と同時に彦根まで区間延長、1990年にデイタイムのみ芦屋・高槻への停車開始(後に全日停車に)


117s6@kyt01
抹茶色、決して「成れの果て」と呼んではならない

JR西日本としてはローカル輸送にて京阪神間で私鉄との競争に勝つと同時に広域輸送という本来の強みを生かす事が民営化成功へのカギとなった。そんな中1989年、快適性と利便性を両立出来る新たな刺客として1990ローレル賞受賞車みんな大好き221系が登場し、3ドア時代に突入。3ドアで乗降しやすくなって遅延のリスクは減ったが、そこはさすが221系。車内は全て転換クロスシートで居住性も◎。アメニティライナーという名称が付けられたが、それは浸透しなかった
機械的には国鉄末期型の211・213系等の正常進化型みたいな所だが、最高速度は120㎞/hと特急型並みになった。私鉄王国を本格的にブッ壊すための第1弾の刺客としては申し分ないものである。


221a2@mescr01
こういう絵はもう撮れない

251b18@yod01
数年内にこの鉄橋でも見られなくなる

そんな221系、1989年~92年まで6次に渡っての396両の増備だったが、117系を完全に駆逐するには至らなかった。それでも1991年にラッシュ時以外の新快速221系となりデイタイムは120㎞/hに最高速度を引き上げた。1992年の6次車投入で新快速を全部8両以上での運行に改めた。
しかし登場から数年で主役の座を奪う奴が東海道山陽で増殖を開始する。1995年、阪神大震災からの復旧と共にあのモンスターがやって来るのである。


その爆走モンスター登場後の話はPart 3 で取り上げる事とする



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