今日は10月1日、東京なら都民の日。小生が子供の頃は公立学校は休校日だった。ただ小生は中学から私立に通っていたので、小学校の時しか都民の日の恩恵にはあずかれなかった。

今日2020年10月1日。それは私鉄王国をブッ壊す、関西の爆走王、特急を抜かす危険なヤツ、そして何といっても18キッパーの強~い見方。そういえば答えは一択、みんな大好き新快速(京阪神)が50周年を迎えた記念すべき日である。
これを機に10月1日を新快速の日にすべきではないかと思う小生である。


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件の新快速のご先祖様に当る関西急電といえば42系・52系が活躍し戦後は80系が活躍した伝説の列車である。1934年から42年及び1950年から57年の間で合計約15年走っていた。
1957年に名古屋~大阪間に準急列車(準急料金が必要)が設定され、それと料金不要の急行電車が被る区間があるのはおかしいという事で快速に改められた。時を同じくして80系電車の湘南色への塗装変更も始まった。こうして関西急電は消えていった。


ところで、50年前の1970年というと大阪万博があったのは御存知だろう。当時1歳半だった小生も家族に連れられて行ったというのだが、まるで記憶にない。その期間中は国鉄としても当然、明けても暮れても万博の臨時輸送であったが、コレが終ったらどうするかという事になる。既に国鉄財政は非常に苦しくなりかけていた上に京阪神ではどうしても各大手私鉄と競争になる。

そこで生まれたのが新快速というサービス、関西急電の形を変えた事実上の復活だった。当初は京都~西明石間でデイタイムに1時間おきの6往復が設定されていた。停車駅は大阪・三ノ宮・明石のみという鬼畜な設定は今も語り草である。
初代新快速113系だったが、横須賀線から万博輸送の為に転属したスカ色の車両が充てられた。それが湘南色に中途半端に塗り替えられていったため、混色の新快速が増えていった。


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スカ色の113系

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JR 西日本の113系

嘗ての関西急電は大阪鉄道管理局の意地の様な存在だった。東京の本社に対するレジスタンスでもあった。
新快速もその部分を受け継いだのか、運行当初は同時発車で列車線を走る特急「雷鳥」を新大阪(当時は特急も新快速も通過)辺りで電車線から抜かすという光景があった。(余裕時分の関係もあった)
これでは本社側=東京のメンツが立たぬとパターンダイヤをずらせと指示したが、当時の大阪鉄道管理局は首を縦に振らず、結局は本社が特急のダイヤを変更したという伝説もある。
72年になると、山陽新幹線が岡山まで開業。山陽方面の急行に使われていた153系が余った。失業した153系新快速で使い倒すという荒業に出たのがブルーライナー2代目新快速の登場である。


153系時代の新快速に小生も乗車した事が1度だけあった。先ず新大阪を通過するというのが信じられなかった(当時は特急も新大阪通過)。京阪神という三都をダイレクトに結ぶ速達列車で関西のシンボルという存在だったから、敢えてデッキがあって乗降が不便で老朽化していても153系で良かったのであろう。
見方を変えれば平準化が国鉄のモットーで独自の車両も作る余裕もないから、近郊型より格上な急行形を持って来るのが精一杯だったと言えなくもない。
これが乗車券だけで乗れる事を含めて当時幼かった小生は色々とカルチャーショックを受けた様に記憶している。


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まだシティライナー色の頃の117系と223系との並び

そして1970年代終盤~80年代になると国鉄改革そして民営化という怒涛の流れが忍び寄る、新快速も例外でなかったと言えるだろう。そこで導入されたのが117系だった。

80年代以降の話は、Part 2 へと続く!



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