先日、チェコ共和国のミロシュ・ヴィストルチル(Milos Vystrcil)上院(元老院)議長が世界の注目を集める演説を台湾立法府内で行った。その名言がコレ
「我是台湾人」=私は台湾人だ
これだけ聞くと、何言うてんの?チェコ人やろ自分!と言うかも知れないが、このオリジナルはJFケネディが1963年西ベルリンで行った演説 " Ich Bin Berliner "
(実際のステイトメントではEin Berliner だが、これはJFK の言い間違いで、正確にはEin は付かない)である。
このエピソードに触れた上でこのカヴァーヴァージョンになる様な発言が飛び出した。


彼のスピーチの概要は以下の通りである。
まずは立法院から立法院国会外交栄誉奨章一等奨章の記念章を頂いたことに感謝したい。台湾の立法機関の頂点にある立法院で発言する機会を得たことは大変光栄であり、心から感謝したい。(中 略)
私は、すべての民主主義者は民主主義の原則を守り、民主主義を作り出す人々を支持する義務があると固く信じている。このため、国会外交の代表として台湾を訪れ、その経験を交換し、互いに支持し、協力の範囲を拡大することができたことを大変光栄に思う。
1963年、当時アメリカの大統領だったJ.Fケネディ氏は西ベルリンで演説した際、共産主義と政権による圧迫を強く非難した上で、ドイツ語で「私はベルリン市民だ」と述べ、ベルリン市民と自由という最高の価値に対する支持を表明した。
私も同様の方法で台湾の人々に対する支持を表明し、立法院での講演を締めくくることをお許しいただきたい。「我是台湾人(=私は台湾人です)」


チェコと台湾には国交がない。チェコでも大統領以下一部の政治家等は親中である。それでも議会の長が政財界の関係者を伴って訪台団として台湾に行ったわけだが、訪台を強く望んでいたのはヴィストルチル議長の前任者=ヤロスラフ・クベラ(Jaroslav Kubera)氏であった。2019年時点で、チェコ特にプラハ市長や多くの政治家達は中共と距離を置く姿勢を明確にしていた模様で、プラハは北京との姉妹都市関係を解消し、台北との姉妹都市関係を締結した。
クベラ前議長が訪台を今年2月に予定している事が分かると、中共の駐チェコ大使(張建敏)が「訪台すれば中国市場に依存しているチェコ企業に大きな損失が出る」という戦狼外交そのものみたいな書簡を送っていた。それ以前にも親中のゼマン大統領を通じてクベラ議長の訪台を止めさせるべく圧力をかけていた
中国大使館の晩餐会に出席したのが1月17日、その3日後にクベラ前議長は急死。17日の時点で心臓に症状が出ていて、遺した言葉が「中国大使館が用意した食事や飲み物を絶対食べない様に」というものだった。
コレ、単なる病死と考えるのは少々無理がある。


beefnoodle01

さて、李登輝の話になるが
1999年、総統だった彼が後継=2000年総統選・国民党の候補者として指名したのは宋楚瑜ではなく連戦だった。
当時、有力とみられていたのは宋楚瑜、彼は李登輝を総統に押し上げた影の立役者の一人。台湾省の首長だったが、人気は絶大。ジャージ姿に野球帽という「蔣経国スタイル」で地方遊説するので有名だった。ところが台湾省は1998年12月20日で省としての機能が凍結されていた。宋楚瑜は梯子を外された格好になって李登輝とも袂を別って無所属で総統選に立候補した。
これで国民党支持層は分裂を強いられ、本人の金銭スキャンダルが1999年末に報じられるに至り、2000年の総統選は僅差ながら民主進歩党の陳水扁の勝利となり、国民党は遂に政権の座から滑り落ちた。国民党候補者だった連戦は、陳水扁どころか無所属の宋楚瑜にも及ばずとんだ赤っ恥をかいたのである。
コレ、李登輝の書いた台本通りだったと言われている。


斯くして、国民党政権をブッ壊す事に成功した李登輝だが、来日が何度も阻まれていたのは有名な話である。70~90年代までは台湾政府の幹部であり、日本と台湾は国交がなく中共の反対もあって実現しなかった。2000年時点で200万人の人の往来がある日台間でありながら、22歳まで日本人で夫婦の会話も日本語という彼が日本の地を踏めないというのは笑止千万ともいえるが、90年代までは媚中な田中派とその流れを汲む人達の政権が続いていた事も大いに関係していると思われる
2001年、総統退任後に心臓治療の為に来日が叶ったが、そこにあったのは当時首相だった森喜朗=清和会の英断でビザが降りたからである。その際も、外務省の厄人(アジア太平洋局長)が大ウソをついてまで来日を阻止しようとしていたのである。


其の八に続く!



当サイトは各種ランキングに参加しておりますので、画面右側若しくは記事内のバナーをクリック下さい。

ブログランキング・にほんブログ村へ