Dufftown 街角ミュージック

マイナーパワーがこの世を救う。今こそ日本を大和民族の手に取り戻せ!連綿と受け継がれる日本と大和民族を護ろう。 害人天国を~、ブッ壊す!

2022年05月

西北とかいう関西人気No.1」というシリーズがあったのを覚えておられるか?
最近は「2022年、大きな節目」シリーズその他に掛かりきりになって、このシリーズはPart 11で一度休止状態になり、2月に再開したがPart 14の後は再び放置状態になってしまった。
ここでもう一度再開し、最終回まで持って行きフィニッシュしようと思う。


西宮でもエエとこの夙川はで有名だが、香櫨園浜から苦楽園駅までの4㎞程・18haの夙川河川敷緑地が整備されている。R2から南の部分はオアシスロードとなっている。
1920年代に阪神地域の河川も次々と改修された。近隣の芦屋川・石屋川・住吉川も相次いで改修された。西宮市は夙川に関しては宮水と松林を護る河川敷公園として整備する事を国に申し入れ、1932年に都市計画事業としての整備が決定。その財源の一部は沿道の市民の寄付で賄われたので、市民が作った川という所だろうか?

河川敷公園は1937年に竣工したが、その時分その河川敷に植わっていたのは松ばっかりだった。
そこにが植えられたのは1949年からだが、桜の植樹に際しては「桜博士」の異名を持っていた笹部新太郎氏に樹の管理に関するアドバイザーを依頼。現在は笹部さくら資料室が白鹿記念酒造博物館内に所在する。笹部氏の死後1978年に同氏が所蔵していた文献や資料、美術品等が市に寄贈され、1982年に白鹿記念酒造博物館に寄託されて資料室になった。


1965年の市制40年で市花がと定められ、その翌1966年からさくら祭りが行われている。1975年までの会場は甲山だったが、76年から夙川河川敷に変更となった。西宮生まれの桜品種も存在し、西宮権現平桜と夙川舞桜がある西宮権現平桜は笹部氏が日本一の山桜とした権現平桜から生まれている。夙川舞桜は夙川周辺にあったの自然交配で生まれた品種とされ、2005年に市民の投票で名付けられた。

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夙川ではカトリック夙川教会(1932~)も有名で、パリのSainte Chapelle(サント・シャペル)聖堂をモデルに建てられたネオ・ゴシック建築である。柱の無いチャペルやステンドグラスが有名で、あの遠藤周作も洗礼を受けていた。阪急の駅の南側には1934年~1995年まで存在したLa Pavoni(ラ・パヴォーニ)という喫茶店は有名で、野坂昭如や小松左京といった文化人達にも愛された超人気店だったが、阪神大震災でダメージを受けた事もあって消滅。
1971年にはR2より南に川沿いの遊歩道も整備された。去年で丁度50年であった。

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夙川は晩秋の桜が紅葉する時期もエエ!

夙川の歴史を語る上で欠かせない人物がいる。商船会社の支店長として1948年、日本にやって来たW.J. オハラ氏とベティ婦人である(Walter John and Betti O'Hara)オハラ夫妻が戦後の貧窮にあえぐ夙川希望の光が差す事を祈って、1948年から駅のすぐ近くにある羽衣橋にクリスマスツリーを建てた。
夫妻は帰国した後も知人を経由して飾りつけの為のバジェットを送り続けていた。そして夫妻の死後もその娘と自治会の間で交流があるという。羽衣橋のツリーだが駅前の再開発を機に1983年には大きな5mのモミの木が駅前のロータリーに植えられ、そっちに移動した。それ以来自治会を主体として年末の点灯式が行われ続けている。
ベティ・オハラ女史はカメラマンでもあったので、夙川居住時代に撮った3000点程のフィルムはアメリカ帰国時、夙川自治会に寄託されて貴重な資料として保管されている


夙川駅の西にはW. ヴォーリス所縁の建物等が建っていた上に、戦前は外国からの商社マン・銀行員・領事館関係者・宣教師等が沢山暮らしていて、特に旧パインクレストホテル(終戦直後の米軍接収時代に野坂昭如氏が働いていた事があったらしい)周辺は「外人村」なんて呼ばれた。 夙川駅の北側の雲井・殿山には終戦後進駐軍に接収された洋館も多く存在した。
戦後暫くすると駅前に商店が増えてきて、1950年に40店舗が入った夙川市場が出来た。阪神西宮の所の公設市場から人の流れが移って来た。


1974年、駅南側に高い建物を建て駅前の商店を移設し、再開発を図るという「夙川駅前再開発事業」がスタート。1977年10月に夙川のランドマークとも言える夙川グリーンタウンがオープンしたが、この再開発と同時並行で区画整理事業が進められた。民間組合による再開発と市主体の区画整理が同時に行われるのは当時はレアケースだった。

次回が最終回の予定、Part 16へと続く!



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2022年、大きな節目」も大台のChapter 30に到達してしまった。これって、開始当初の想定とは相当違った状況になっている。しかも30記事の内26記事が1972年の事で占められている。Chapter 5以降が全て1972年のネタで、1982や1992に移るにはあと数回を要しそうだ。

1972年のスポーツに関する話をして行こうと思う。
この年に日本球界でデビューしたのは、定岡智秋、片平晋作、山本雅夫、若菜嘉晴、梨田昌孝、羽田耕一、佐々木恭介、平野光泰、弘田澄男、倉持明、安田猛、中村勝広、山本和行、道原博幸、永射保、劔持節雄、庄司智久
1971ドラフトで指名されたのは1953年生まれ高卒、1949年生まれ大卒が中心=団塊・ポスト団塊の何れかで数は多い。


スポーツ界では札幌のウィンターオリンピック(日の丸飛行隊で伝説に)とミュンヘン夏季五輪が行われた。ただ、ミュンヘンオリンピックは血塗られてしまった。

外国人力士として高見山が初優勝。競馬ではハイセイコーがデビュー
9月26日、福本豊(阪急ブレーブス)が、対南海ホークス戦(@西宮球場)の3回裏に2塁盗塁に成功。これでシーズン105盗塁となり盗塁世界新記録達成。この試合でブレーブスもリーグ優勝決定となった。(因みに長池徳二氏は41HRで最多本塁打を獲得、同チームのレジェンドだったDaryl Spencer氏=当時44はこの年で引退になった)
この72年も最終的に巨人軍が8年連続リーグ優勝+日本一(V8)。10月7日には村山実氏が現役引退を表明。セントラルリーグMVPは堀内恒夫氏、パシフィックリーグMVPは福本豊
11月に西鉄ライオンズが球団経営権を福岡野球に譲渡し、太平洋クラブライオンズとなる。ペプシコ日本法人やパイオニアへの売却交渉も進められたものの、黒い霧事件からの不人気も絡んで実現せず。「こんな形」になった。
尚、この1972年は東映フライヤーズの最後の年でもあった。ただ、日拓ホームへの球団売却は翌73年1月だった。

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近鉄2800系も50周年だが、あと数年はイケそうだ。名古屋線・高田本山付近にて

この年の大晦日に球界に衝撃を齎す出来事があった。
Roberto Clemente氏が事故死、享年38・現役中の死去だった。同氏は出身のプエルトリコを始め中南米での慈善活動に取り組んでいて、野球道具や食料を必要としている人々に提供していた。この年の12月31日=ニカラグア地震の2日後、その被災者への援助物資を提供するためにニカラグアへ向かうチャーター機(Douglas DC-7)に搭乗、その途上で航空事故に巻き込まれ、亡くなった。過積載状態で離陸直後にエンジンが不調だといって引き返そうとした途端、洋上に墜落。地震の起きた日=29日はクレメンテ氏の3000安打達成記念パーティーが行われていて、その席上で地震の事が話題になり、ニカラグアに向かう事を決意した。人格者で慈善活動を精力的に行っているMLB選手に贈られる賞は、1971年制定当時はCommissioner's Awardという名だったが、クレメンテ氏の事故死を受けてRoberto Clemente Awardと名前が変わった。中南米系のメジャーリーガーの草分け的存在であった同氏は、1955~72年までの18シーズンPittsburgh Pirates一筋で、3000安打・240HR・1305RBIという数字を残し、背番号21は無論、チームのretired number。


MLBのストライキで公式戦をボイコットされたのはこの年が初めてだった。
これで4月4日開幕のシーズンの最初の9日分の日程がキャンセルされた(代替はナシ)。ペナントレースの公式試合を全球団選手がボイコットしたのはこの1972年が最初であった。これには連邦政府が仲介に入り、調停の結果は決着が付かないまま9日間のストは終わり、この年に結ばれる筈だった労使協定締結は1年延期になった。


この年はTexas Rangers最初の年でもあった。2代目のWashingtton Senetors(1961~71)がTexasのArlingtonに移転して、Texas Rangersになった。心機一転出直しとなったシーズンだが、アメリカンリーグ西地区最下位に終わった。
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この年のシーズン後、1964年からCBSが保有していたNY Yankeesが売却される事となった。そして年が明けての1973年、あのGeorge M. Steinbrenner III(ジョージ・スタインブレナー)氏がオーナーになる。
ストライキで少々短縮されたシーズンの結果、ALはDetroit Tigersが東地区を制し、西はOakland Athleticsが制してALCSはAthleticsが勝ち上がった。一方NLはPittsburgh Piratesが東を、Cincinnati Redsが西を制して、NLCSの結果Redsが勝ち上がった。World SeriesはOaklandCincinnatiを4勝3敗で下し、1930年以来の王者になったが、この年からWS3連覇を達成する事となる。


個人成績に眼を移すと、Dick Allen(CWS)がALでHR・打点の2冠王(37HR・113RBI)、NLもJohnny Bench(CIN)がHR・打点の2冠王(40HR・125RBI)
投手部門ではSteven Norman Carlton(PHI)がNLの最多勝・防御率・最多奪三振・投球回の4冠達成


高校野球では、センバツは仲根正広(ジャンボ仲根)を擁した日大櫻丘が、全国高校野球選手権は津久見が優勝。社会人野球では、都市対抗野球は日本楽器(ヤマハ)が、産業対抗野球大会は日本石油(現・JX-ENEOS)が制した

ゴルフ界では、
MastersとUS OpenはJack Nicklausが制し、PGA賞金王と合わせて3冠だった。U.S. PGA ChampionshipはGary Playerが獲った。The OpenはLee Trevinoが制している。
Women's PGA ChampionshipはKathy Ahernが、U.S. Women's OpenはSusie Berning、Titleholders Championship(この年が最後の開催)はSandra Palmerがそれぞれ制している。LPGA賞金女王はKathy Whitworth

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NFLでは1月16日のSuper Bowl ⅥDallas CowboysMiami Dolphinsを24 - 3で下して、前年(第5回)の敗戦の屈辱を晴らし、初のSuper Bowl Championになった。Cowboysにとって、このシーズンがTexas Stadium最初の年だった。

日本ラグビーでは、
秩父宮ラグビー場で1月15日に行われた、第9回日本ラグビーフットボール選手権大会だったが、早稲田大学が14-11で三菱自動車工業京都を下し日本一になった。

NBAでは1971~72シーズンを制したのはL.A. Lakers、ファイナルでN.Y. Knickerbockersを4勝1敗で下した
NHLで頂点に立ったのはBoston Bruins、Stanley CupでN.Y. Rangersを4勝2敗で下した

F1ではこの時代、所謂キットカーが幅を利かせる様になったが、ドライヴァータイトルはEmoことEmerson FittipaldiJPS Lotus)、コンストラクターも同チームが獲得。Lotus 72が70年代前半は大活躍。70年のJ. Rindtと72年のE. Fittipaldiがチャンピオンになり、73年にもコンストラクタータイトルを獲得。

1972年生まれのスポーツ選手というと…
真壁刀義、武蔵、Jérôme Le Banner、Dwayne D. Johnson(The Rock)、花田光司(貴乃花)、浅香山親方(魁皇博之)、藤島親方(武双山)、Shaquille R. O'Neal、葛西紀明、高橋尚子、薮下めぐみ、岩本輝雄、水内猛、名波浩、Rui Manuel César Costa、Pavel Nedvěd、Luís F. Figo、 Zinedine Y. Zidane、Rivaldo V. B. Ferreira、Roberto C. Abbondanzieri、朝原宜治、
稲葉篤紀、和田一浩、Big Boss、木村拓也、鈴木尚典、北川博敏、西口文也、Aaron Giuel、Alex Ochoa、Jeff Williams、本間満、谷佳知、万永貴司、藤田宗一、河原純一、入来祐作、沖原佳典、大塚晶則、西郷泰之、Manny Ramirez、Chipper(Larry Wayne) Jones


次回=Chapter 31へと続く!



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こんな事を何回も書きたくはないのだが。注意を促したい事があるので、書かせてもらう
当サイトではコメントは承認制を採用している。こんな所でもコメントが時折書き込まれるが、最近は到底承認出来ないものが続いている。承認出来ないものとしては…
◎ 記事に関係がない、若しくは関係が非常に薄い
◎ 事実に基づかず勝手な妄想や空想によって書かれたようなもの
◎ このサイトの品位を貶める可能性があるもの
◎ 内容が非常に稚拙若しくは幼稚なもの。その他、明らかに不適当な内容のもの
◎ 機械的にばら撒いたと思われるもの
こういう類のコメントは承認致しかねるので、そこの所には御理解頂きたい。


さて、「2022、大きな節目」もChapter 29までやってきたが、ここでは音楽芸能の話を行きたい。
1972年デビュー(=デビュー50年)の主だった芸能人はというと…
郷ひろみ、西城秀樹、高橋真梨子、天童よしみ、三浦友和、牧村三枝子、藤原喜明、杉田かおる、檀ふみ、中田喜子、大石吾朗、キャロル、アリス、フィンガー5、宮史郎とぴんからトリオ、井上陽水、荒井(松任谷)由実、五輪真弓、アグネス・チャン、森昌子、麻丘めぐみ、沢田研二がソロになって初のレコードを出したのも1972年


これが1972年生まれ=今年50歳という事になると、こういうラインナップである。
中居正広、木村拓哉、スマイリーキクチ、中川礼二、平井堅、濱口優、有野晋哉、チャン・ドンゴン、ペ・ヨンジュン、藤井隆、照屋年之、日村勇紀、関口知宏、ケンドーコバヤシ、谷原章介、藤木直人、土田晃之、中村獅童、Billy Joe Armstrong(Green Day)、Liam Gallagher(OASIS)、長野博、堀江貴文、EMINEM、鉄拳、品川祐、渡部建、児嶋一哉、長州小力、土田晃之、井戸田潤、すっちー(須知 裕雅)
常盤貴子、松雪泰子、久保純子、菊間千乃、稲森いずみ、石田ひかり、寺島しのぶ、西田ひかる、梅宮アンナ、鈴木砂羽、Cameron M. Diaz、高岡早紀、アンミカ、小島慶子、蜷川実花、飯島愛、佐々木恭子、魚住りえ、椿鬼奴、大東めぐみ、諏訪内晶子、信田美帆、半井小絵、室井佑月
 
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Billboard top 100年間チャートのTop 20は以下の通り
#1=The First Time Ever I Saw Your Face/Roberta Flack #2=Alone Again (Naturally)/Gilbert O'Sullivan
#3=American Pie/Don McLean #4=Without You /Harry Nilsson #5=Candy Man/Sammy Davis Jr.
#6=I Gotcha/Joe Tex #7=Lean On Me/Bill Withers #8=Baby Don't Get Hooked On Me/Mac Davis
#9=Brand New Key/Melanie #10=Daddy Don't You Walk So Fast/Wayne Newton
#11=Let's Stay Together/Al Green #12=Brandy (You're A Fine Girl)/Looking Glass
#13=Oh Girl/Chi-Lites #14=Nice To Be With You/Gallery #15=My Ding-A-Ling/Chuck Berry
#16=If Loving You Is Wrong I Don't Want To Be Right/Luther Ingram #17=Heart Of Gold/Neil Young
#18=Betcha By Golly, Wow/Stylistics #19=I'll Take You There/Staple Singers #20=Ben/Michael Jackson


この年に出た洋楽の名盤アルバムはというと、こんな所が挙がって来るか
The Doobie Brothersの「Toulouse Street」、Chicagoの「Ⅴ」、Joni Mitchellの「For the Roses」、Black Sabbathの「Vol. 4」、Genesisの「Foxtrot」、Carpentersの「Song for You」、Chuck Berryの「The London Chuck Berry Sessions」、Steely Danの「Can’t Buy A Thrill」、Deep Purpleの「Machine Head」、Stevie Wonderの「Talking Book」、Aretha Franklinの「Young, Gifted and Black」、The Rolling Stonesの「Exile On Main St.」、David Bowieの「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」、Lou Reedの「Transformer」、Eaglesの「Eagles」


日本のヒット曲の上位10傑は以下の通り
#1=女のみち(宮史郎とぴんからトリオ)#2=瀬戸の花嫁(小柳ルミ子)
#3=さよならをするために(ビリーバンバン)#4=旅の宿(よしだたくろう)
#5=悪魔がにくい(平田隆夫とセルスターズ)#6= ひとりじゃないの(天地真理)
#7=京のにわか雨(小柳ルミ子)#8=別れの朝(ペドロ&カプリシャス)
#9=ちいさな恋(天地真理)#10=太陽がくれた季節(青い三角定規)


第14回レコード大賞では、
大賞=喝采(ちあきなおみ)、同最優秀歌唱賞=あの鐘を鳴らすのはあなた(和田アキ子)
最優秀新人賞=芽ばえ(麻丘めぐみ)
第3回日本歌謡大賞に於いては、
大賞=瀬戸の花嫁(小柳ルミ子)、放送音楽新人賞=雨(三善英史)・せんせい(森昌子)


音楽・エンタメ等の世界の出来事としては他に…
ソ連に逃避行していた岡田嘉子が帰国し日本の芸能界に復帰。(1986年に再びソ連に渡り、1992年にロシアで死亡)
日活ロマンポルノ事件。日活ロマンポルノについて、これが芸術か猥褻かというのが、刑事訴訟に発展し裁判で争われた事件である。(結局全被告無罪)
東映が洋画配給に進出、東宝が創立40周年、映画雑誌の「ロードショー」(Roadshow)創刊
Francis F. Coppola監督の不朽の歴史的名画、The Godfather(ゴッドファーザー)が3月にアメリカで、7月に日本で公開されて大ヒット。(この年の全米興行収入1位で、第45回アカデミー賞の作品賞・主演男優賞・脚色賞。1990年からは、National Film Registryに保管されている)


この年の主だったTVアニメを挙げると…
月光仮面(ナック/日本テレビ)、赤胴鈴之助(東京ムービー/フジテレビ)、デビルマン(東映/NET)、科学忍者隊ガッチャマン(タツノコプロ/フジテレビ)、ムーミン(フジテレビ・2代目)、魔法使いチャッピー(東映/NET)、ど根性ガエル(東京ムービー/朝日放送)


次で新たの大台、Chapter 30に乗る!



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50年前の日本では大気汚染や水質汚染といった公害も大きな影を落としていた。1950~70年代の公害が同時代に左翼が大暴れした事とガチャコーン!と一部で接続しているのである。
1972年7月24日に所謂四日市公害裁判で「喘息の原因は工場から出る煙に含まれるSOX」と認められ、原告勝訴の判決が津地裁で下され、そのまま判決は確定となった。
四日市公害訴訟は1967年9月に9人の公害認定患者が第1コンビナート企業6社を相手に起こした裁判。四日市ぜんそくはイタイイタイ病、水俣病、新潟水俣病と並ぶ4大公害の一つ。
公害の原因を作ったとされる第1コンビナートは1959年操業開始、第2コンビナートは63年操業開始で四日市市の塩浜地区にあり。公害は1963年辺りから深刻化したと思われる。
この裁判の過程で、公害対策が大きく前進。左翼も調子に乗ったが、1972年に「三重県公害防止条例」=(全国で初の本格的な硫黄酸化物の総量規制を導入)が施行された。


話は変わって「ヨッコイしょういち!」という訳で…、
1972年に入って早々の1月24日、グアム島で元日本陸軍兵士の横井庄一氏が発見され、2月2日に帰国、10日に任務解除。(帰国は札幌オリンピック前日)
今年4月にはCBC中部日本放送で帰国50周年記念TV番組「恥ずかしながら」が放送され、名古屋で劇場版も公開された。神戸女学院大学教授の幡新大実氏は横井氏の甥である。(今年で横井氏死後25年である)


この年爆誕したものを挙げて行くと…、
「チケットぴあ」で御馴染のぴあ株式会社、「太陽にほえろ!」、「必殺仕掛人」、(消える魔球付き)野球盤、「水曜ロードショー」(NTV)、すし太郎(永谷園)、小僧寿し本部、ソックタッチ(白元)、カシオミニ、4代目スカイライン=ケンメリが9月に登場、カローラレビン・スプリンタートレノもデビュー、本田技研はCVCCシステム搭載の初代CIVICを爆誕させ、SUBARUはレックスを売り出した。東北自動車道も初めて開通し(岩槻~宇都宮)、東名・中央両高速道路を繋ぐ日本初の高速道路ジャンクション=小牧JCTが登場。初心者マークもこの年導入。漫画では「ベルサイユのばら」「ドカベン」が連載開始となった。
モスバーガー1号店(実験店@板橋区)が営業開始、北海道文化放送、テレビ神奈川、びわ湖放送が開局


バングラデシュ=旧東パキスタンが改名(1月11日)、所属していたイギリス連邦から離脱(1月30日)
川崎・福岡・札幌の3市が政令指定都市に成り上がった。年末の衆議院選挙では小泉チョンイチロー、加藤紘一、山崎拓、三塚博、村山富市なんていう所が初当選。

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皆様は、嘗て大阪に千日デパートというものが存在していたのを御存知であろうか?
千日デパートの前前身は大阪楽天地=1914~30。経営は南海系列で創業した千日土地建物(日本ドリーム観光の前身)。
楽天地は劇場・演芸場・レジャー施設を含む大正時代の大阪を代表するハイカラな名所だったらしい。1912年のミナミの大火で其のエリアが大々的に焼失し、その焼け跡の再開発として爆誕したのが楽天地だった。展望台・劇場・メリーゴーラウンド・ローラースケート場等を有して、夜がイルミで彩られたという。
その後、楽天地閉鎖後の1932年、その跡地に大阪歌舞伎座が建てられる。1958年まで大阪歌舞伎座は営業するが、同年に大阪・新歌舞伎座に役目を譲って閉鎖。12月1日に閉鎖した大阪歌舞伎座を改築し、新装開業した複合商業施設が千日デパートという訳であった。この千日デパートは日本での大型ショッピングモールの走りだった。21世紀のこの国では当たり前に存在する物の一種のプロトタイプが1950年代の大阪に、しかも郊外でなく中心部に爆誕していたのである。この時代の大阪には時代のパイオニアとなる物が結構存在していた。

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日本ドリーム観光には元々南海も絡んでいた。6200系=2018年6月・大和川の岸で撮影

1972年5月13日22時27分頃、大阪市南区難波新地(現・千日前)にある千日デパートビルにおいて、改装の為の電気工事中であった3階婦人服売場付近より出火した火災は、手動閉鎖の防火シャッターが閉められなかったため、エスカレーター開口部を通じて上下階の4階、2階へと延焼した。さらに3階の店舗部分から発生した一酸化炭素を含んだ多量の濃煙はエレベーターシャフトや階段、空調ダクトを通じて上層階へと昇り、火災発生当時、7階で営業していたキャバレー・プレイタウンにいた人々を襲った。

22時30分頃、電気工事作業員が通路で作業中にガラスの割れるような音に気づき見ると、幅約40cm高さ約70cmの赤黒い炎を発見した。彼は「火事だ」と叫び、同僚と付近の消火器などを探しながら3階西側設置の火災報知機を押した。1階の保安室にいた保安係長は、22時34分頃火災報知機の受信盤で3階で火災が発生したことを知り、数分後に119番で消防局に通報した。しかし、このとき営業中であった7階のプレイタウンへは何の通報連絡も行っていない。(解せねぇ!)

火災を発見した作業員や、1階から駆け付けた保安係員らは、消火器や屋内消火栓を使って初期消火を試みようとしたが、いずれも時機を逸したり濃煙に妨げられたりして、初期消火は失敗で1階に退避した。その後、3階の火災は2階と4階に延焼したが、5階への延焼は免れた。
大量の濃煙は主に3つのルートから、多くの滞在客のいた7階のキャバレー・プレイタウンに伝搬していった。その一つは、空調リターン系統のダクトであり、エレベーターシャフトの欠損部分からも煙が入り込んで上昇し、7階のエレベータードアの隙間から場内に煙が噴出した。さらに、大量の煙は階段室にも流入して上昇した。猛煙・熱気・有毒ガスが充満し、停電による暗闇により、室内での行動はほとんど不可能になっており、窓際に移動出来ずに逃げ回った人達や、他に避難路を求めた人達は、全員が息絶えてしまった。
火災発生翌日には自治大臣が大阪市長・大阪府知事を伴って視察にやって来る始末。火災の沈下には2日弱を要して、15日17時30分正式に鎮火が発表された


千日デパートを経営する日本ドリーム観光とプレイタウンを経営する千土地興行は、親子会社の関係にありながらも防火管理や避難誘導について協議したことは1回も無かった様だ。また、ビル火災を想定した消防訓練や避難訓練を共同して行った事も当然なく災害時の連絡体制も何も考えられていなかった。前述の(1階から)「7階のプレイタウンへは何の通報連絡も行っていない」という件も当然であった。
千日デパートの前身は大阪歌舞伎座、その建築は1932年。その時は現在の消防法、建築基準法も存在せず、その後の改築時にも、法令規制は一部を除いて遡及適用されなかった。よって、スプリンクラー設備、自動火災報知設備、火災感知器連動の防火シャッターや防火扉等は未設置であった。つまり違法ではないものの、いわゆる既存不適格の状態であった。


千日前付近でも遺体の安置場所が足らず、現場から4㎞以上離れた大阪市北区の太融寺でも多数の遺体を受け入れる事となったが、この2年前=1970年の「天六ガス爆発事故」で犠牲者の遺体を安置した事から、寺側がこの事件でも遺体の受け入れを決めたという。
ただ、運び込まれたものの引き取り手が決まらずに「捌けない」遺体が多かったので寺の100畳の本殿は一杯になったという。5月ともなれば遺体の劣化も早い可能性があり、本殿も余計に悲惨な状況だった事も考えられる。
現場となったビル7階にあったのはキャバレー(チャイナサロン)、水商売にはありがちな事だが、出入りする人の身元が抑々ハッキリしない事が多い。身元もハッキリしない遺体も多く、引き取り先も見つからないケースも多かった。同寺では事件から50年となる5月13日、犠牲者118名の法要が営まれた。


この火災は、死者118人、負傷者81人という日本のビル火災史上でも最大の衝撃的惨事となった。死者118人の内、22名は転落死であった。熱や煙から逃れようとして飛び降りてしまい、転落死する人が多かった。7階からアーケードの屋根や地面に人が転落する音が周辺には響いていたという。
また、国や消防機関においても、ビルの防火対策の抜本的な見直しや改善の検討が行われ、現在に至るビル防火対策の基本となる事項が定められる契機ともなった。



これについての刑事訴追だが、防火責任者ら3被告が業務上過失致死傷罪で起訴されたのに留まった。その3名も1審では無罪、控訴審で逆転有罪、上告審も有罪だった。(確定は1990年)
民事訴訟の方だが、遺族会統一訴訟は1975年に和解。テナント側と日本ドリーム観光の間の訴訟は1989年に終結した。
1980年1月にテナント側と日本ドリーム観光間において。デパート取り壊しで合意、取り壊しが決定し。翌年4月に取り壊しが完了した。あの大火災から建物消滅まで9年弱を要した事になる。
取り壊してから2年5か月後の1983年9月にエスカール(ESCALE)ビルが竣工、84年1月からプランタンなんばダイエーで営業開始、その後2000年からカテプリなんばになり、その翌2001年からはビックカメラ、キャンドゥとキョーイチからなるエスカールなんばになっている。このビルの現在の所有者は松原興産である(2004~)


この年の大阪では西成も当然の如く荒れていた。釜ヶ崎暴動も第13次~20次までの8回もこの年に、しかも5~10月の間に集中して起きている。

次回、Chapter 29へと続く!



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今から50年前は、プロレス界でもビッグバンに当る様な事が起きた年だった。言い方を換えると、現代的プロレスの2大源流が誕生した年だったのだろうか?
1972年1月13日、アントニオ猪木こと猪木寛治が新日本プロレスリングK.K.を設立、同年3月6日旗揚げ興行を大田区体育館で挙行。当時のメンバーは、アントニオ猪木、魁勝司、山本小鉄、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳、豊登(条件付き)、Karl Gotch=選手兼ブッカー、レフェリーのユセフ・トルコ(Yusuf Omar)
旗揚げ興行のメインカードは猪木対ゴッチで、ゴッチの勝ちだった。


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猪木氏は新日プロを作ったのはクーデター失敗→除名という流れの産物だった。同氏はこの前にも日本プロレスを離脱し東京プロレス(Ⅰ)に転出し、そこからの出戻りを経験している。

新日爆誕劇の始まりは1971年11月だった。ジャイアント馬場・アントニオ猪木両氏が中心となって当時の日本プロレス改革を行おうとしていた。社長の芳の里以下役員達を退陣させるというものだったが、改革を一気に進めようとする猪木と、それを性急だという馬場で意見が対立。それでも11月28日役員会議で、猪木と木村昭政氏が帳簿のインチキさや使途不明金について追求し、猪木は更に木村を経理監査役に迎え入れる事を提案。芳の里はあっさりと社長代行の委任状を木村に手渡し、幹部連中の使い込みはストップさせた。

ただ、この暴走とも言える猪木の行動がBI砲の間の亀裂を生じさせた。猪木と木村以下のブレーンは、猪木社長・木村副社長で日本プロレス経営権を手中に収めようと目論んでいたとされる。これを改革ではなく乗っ取りであると考えた馬場は12月3日に「猪木抜きの」選手会を開き、猪木派の計画を上田とともに暴露。
12月6日、大木金太郎選手会長代行が臨時選手会を招集。猪木の選手会からの除名を提案、議決により猪木は選手会から除名処分になった。猪木除名は13日に事務所で正式に発表された。翌14日猪木サイドも反論の記者会見を行い、馬場・上田を裏切り者として非難。馬場はこれに対し、猪木こそ会社を私物化しようとした裏切り者だと「ゴング」誌のインタビューで語っていた。



去る3月1日には日本武道館にて新日本プロレス創立50周年の「旗揚げ記念日」大会が行われ、試合開始前の17時から主要OBを招いて記念セレモニーが行われた。
まず、半年の入院生活から復帰したリングアナウンサー・田中ケロ(田中秀和)氏がリングに上がり、「2022年3月1日、新日本プロレス旗揚げ50周年記念セレモニー、その時が来た! 50年の歴史を作りし、OB達の入場です!」と叫ぶと、井上亘、獣神サンダー・ライガー、小林邦昭、坂口征二相談役、保永昇男さん、タイガー服部、北沢幹之(魁勝司)、ミラノコレクションAT、田中稔、垣原賢人、山崎一夫、藤原喜明、前田日明、越中詩郎、木村健悟、蝶野正洋、武藤敬司、長州力、藤波辰爾(全員敬称略)といったメンバーが集結。例のアレによる入場制限と行動制限のため、フルキャパ14000人超の武道館に入れた観客は3183人。
創始者アントニオ猪木、初代タイガーマスク佐山聡の両氏は闘病中の為欠席(佐山氏はVTRで出演)、佐々木健介、馳浩(当時石川県知事選挙中)、高田延彦、中西学といった所の姿もなかった。因みに馳浩氏は今日現在第20代石川県知事である。(小生としては総理大臣を目指して頂きたかったが…)


現在、NJPW 50th Anniversaryという特設サイトが開かれている。記念のエキシビション(試合ではなく展覧会)=「シンニチイズム NJPW ism」も東京・名古屋・福岡で行われ好評を博し、7月には広島での開催も決定。
一時期はもうダメかとも思われていたが、奇跡のV字回復を成し遂げて何回目かの黄金時代を謳歌している新日本プロレス。2000年辺りは猪木氏が仕掛けた格闘技路線で自滅して、90年代を牽引した主力レスラーが次々と退団し、そこにプロレスリング・ノアの台頭もあって苦境に立たされまくった時代すら隔世の感がある。

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第2代社長で現在相談役の坂口征二氏は旗揚げメンバーではない。旗揚げ時に、坂口のタニマチであった中村産業社長を通じて、1000万円の支度金を提示し新日プロへの参加を要請するがその時坂口は拒否。日本プロレスは猪木に代わる看板として坂口を売り出そうとしていたが、上手く行かず。日プロと新日の合併も大木金太郎が反対しご破算に。
その翌年=1973年に猪木と全く対等の条件という約束で、日本プロレスから木村聖裔(健吾)、小沢正志(キラー・カーン)、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍した。NETテレビは、坂口氏合流を条件にテレビ中継=ワールドプロレスリングを開始。ワールドプロレスリングも来年で50歳という事になる。(肝心のテレビ朝日が来年まで保つかが不安草叢


坂口氏合流の背景として、日本プロレスで東京タワーズをG. 馬場と組んでいた坂口、当時の状況からすると全日本プロレス側に行くと思われていた。しかし、全日が鶴田友美(ジャンボ鶴田)獲得に動いていた事で、馬場、鶴田と被ってしまう事を懸念した上に、馬場元子女史とも会わなかった事で新日に行ったのではないかと一説では言われている。アントニオ猪木の強烈すぎるキャラクターに対して、坂口が最高最強の#2であり続けた事が新日の発展を支えていたというのは間違いない。1989年に社長に就任すると猪木時代の借財を8年で返済、約10年の坂口体制下で離脱レスラーはいなかった。

新日が爆誕した後だったが、それまで日プロを中継していた日本テレビの画策で、ジャイアント馬場氏も日プロを離脱→全日本プロレス創立という流れになった。この時、日本テレビは猪木にも交渉を持ち掛けていた事により、「猪木氏を日本テレビに出演させない為に独立した」と馬場氏も後に明言していた。これが全日本プロレス爆誕の背景の一つであろう。
72年7月29日に日本プロレスからの独立を発表、全日本プロレス旗揚げの記者会見は10月16日(ヒルトンホテル)だった。日本テレビと百田家(力道山)のお墨付きを得て21日に旗揚げ前夜を行い(町田市体育館)、22日に旗揚げ興行(日大講堂)を行った。外国人レスラー招聘ルートもガッチリ確保して日プロからの妨害工策も利かない状況で順調に滑り出した。
1972年秋から日本プロレス・国際プロレスに加えて、新日本プロレス・全日本プロレスという4団体時代が73年4月まで約半年続いた。
73年4月に日本プロレスは解散、力道山死去から10年と保たなかった。その後、大木金太郎ら9名の「日本プロレス残党」は「百田家預かり」となって全日本プロレスに合流するが、冷遇を喰らう破目になったのは有名。


80年代中盤まで新日に押されまくっていた「ワルツ」な全日だったが、ジャパンプロレス参戦~天龍革命という中で「明るく楽しく激しいプロレス」を確立し、90年代には「四天王プロレス」等で一大ブームを起こし、まさに全盛期を謳歌した。
だが、1999年1月に馬場氏が61歳で死去、その後は2000年に三沢光晴氏以下大部分のレスラーやスタッフがプロレスリング・ノアに移動。これを以って、日本テレビも全日本プロレス中継を終了し、同局保有の全日本プロレスの株式も手放した。
その後だが、2002年に新日を退団していた武藤敬司を迎え入れて、そこから「武藤体制時代」が約10年続いた。


その後2012年に白石伸生氏の下で全日本プロレスシステムズに移行した。
それから2年、2014年6月には秋山準氏が復帰して社長に座った。同年7月1日、全日本プロレス・イノベーション株式会社と、同社の完全子会社となるオールジャパン・プロレスリング株式会社が発足。
翌2015年12月にはこの両会社の親子関係は解消、興行権がオールジャパンPWに完全移行された。これよりオールジャパン・プロレスリングが中心となり経営を行っていくことになった。

2019年7月になると、福田剛紀氏が社長、秋山準氏はジェネラルマネージャーという体制になった。
その翌2020年になると、「脱秋山」という方針が打ち出され、秋山氏はDDTにレンタルされた後、全日本プロレスを正式退団。2021年3月には選手会長だった諏訪魔(諏訪間幸平氏=当時44歳)が専務執行役員に就任


今年9月18日には50周年記念大会を日本武道館で開催予定

てなわけで次回=Chapter 28へと続く!



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