Dufftown 街角ミュージック

マイナーパワーがこの世を救う。今こそ日本を大和民族の手に取り戻せ!連綿と受け継がれる日本と大和民族を護ろう。 害人天国を~、ブッ壊す!

2022年03月

この「2022年、大きな節目」では、今年2022年に「大きな記念の節目」を迎える人や出来事・物をフィーチャーしているが、只今Chapter 16では半世紀を迎える=1972年の物事をフィーチャーしている。1972年はネタの玉手箱なので、相当長くなりそうだ。

1972年に浅間山荘事件を起こしたのは連合赤軍だが、テルアビブの空港で乱射事件を起こしたのは日本赤軍。ここからは日本赤軍について軽くだが総括する。
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先ず、日本赤軍が起こした数多くのテロ事件の中で、その代表格と呼べる事件を列挙すると

テルアビブ・ロッド空港乱射事件=1972年5月30日

日航ジャンボ機乗取事件(ドバイ事件)=1973年7月20日
日本赤軍5人+PFLP4人、合計9人の犯人グループが乗客乗員145人を乗せた日本航空のパリ発アムステルダム・アンカレッジ経由(時代を感じる)羽田行きの404便をハイジャックした。アムステルダム離陸後グループの1人が手榴弾を誤爆して死亡。これを機に作戦変更をしたのかその直後にハイジャックを実行。UAEのドバイ、シリアのダマスカスを経て、リビアのBenghazi(ベンガジ)にあるBenina=ベニナ空港に到着。24日に人質全員を解放し脱出させた直後、機体を爆破した上でリビア当局に投降した。犯人グループはリビア政府の援助を受けて国外逃亡を果たした。


シンガポール製油所襲撃事件(シンガポール事件)=1974年1月31日
日本赤軍2人(和光晴生・山田義昭)+PFLPメンバー2人=計4名が、シンガポールのブクム島にあるRoyal Dutch Shell plc(ロイヤル・ダッチ・シェル)の石油精製施設にボートで上陸し、石油タンクなどの施設をプラスチック爆弾で爆破した。この6日後=2月6日になって、日本赤軍+PFLPが在クウェート日本大使館占拠事件を起こした。これでシンガポールで事件の犯人を乗せたJAL特別機はクウェイトに向かう事となった。この特別機は両方の事件の犯人グループ+日本政府やPLO(パレスチナ解放機構=クウェイトでの事件解決の為の仲介役だった)の関係者を乗せて南イエメンのアデンに行って現地で投降、その後南イエメン政府の黙認を受けて犯人グループは逃亡した模様。



ハーグでのフランス大使館占拠事件(ハーグ事件)=1974年9月14日
事件の2ヶ月前、日本赤軍の山田義昭がParis-Orly(パリ・オルリー)空港で偽造紙幣所持+偽造旅券行使の容疑で逮捕された。山田の奪還を狙ってオランダはハーグにあるフランス大使館を襲撃し、大使らを人質にフランス当局と山田を交換する交渉を行う事にした。和光晴生・奥平純三・西川純というメンバー3人(奥平純三は奥平剛実弟)は9月10日チューリッヒで合流して鉄道でオランダ入りした。14日になって直ぐ、3人はフランス大使館に拳銃と手榴弾で武装して侵入、大使ら11人を大使室に監禁し、山田の釈放引き渡し、脱出用航空機+慰謝料100万$を要求。この間にもオランダ警察と銃撃戦になった。(この時の人質に当時の大使であったJacques Senard氏がいた。同氏はRenaultの現Chairman=Jean-Dominique Senard氏の父)

この事件勃発翌日にはPLFPのテロリストでカルロスことIlich Ramírez Sánchez(イリイチ・ラミレス・サンチェス=超凶悪テロリスト)がパリで爆弾テロを起こして、日本赤軍に援護射撃を加えた。


結局17日にオランダ政府が30万$を払い、フランス政府も要求を呑んで山田を釈放の上、逃亡用のAir Franceのボーイング707も用意した。18日早朝に人質は全員解放され、山田と犯人グループ3人はアムステルダムのAmsterdam Airport Schiphol(スキポール空港)から出国。
イエメン人民民主共和国・首都のAden(アデン)に行ったが拒否され、燃料補給後にシリアのダマスカス国際空港に行く。そこで、30万ドル他携行物等の全放棄という条件を呑んでシリア当局へ投降した。

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在クアラルンプール米大使館領事部・スウェーデン大使館占拠事件(クアラルンプール事件)=1975年8月4日
武装した日本赤軍のメンバー5人が、マレーシアの首都のクアラルンプールにある、アメリカとスウェーデン大使館を襲撃・占拠し、館内にいたアメリカの総領事を含む52人を人質に取った。赤軍サイドは人質の解放とバーターで日本国内で拘留・服役中のメンバー7人の釈放を日本政府に要求。この7人の内、日本赤軍への参加意思を示した5人を釈放・出国させた。この保釈は検察庁法第14条但し書きに準ずる形の超法規的措置として行われた。釈放の5名は出国し、犯人グループは7日にJAL機(ダグラス DC-8)でリビアに向け出国。8日にリビア政府に投降。


この2年後、野村秋介等の右翼活動家4人が所謂「経団連襲撃事件」を起こした。クアラルンプール事件で日本政府が日本赤軍に屈し、その要求を呑んだ事に影響されての事件と言われている。「戦後体制の欺瞞に鉄槌を下す」という目的で、拳銃・猟銃・日本刀で武装し経団連会館に侵入し、職員12名を人質にとり、7階の会長室に約11時間監禁籠城した。

ダッカ日航機乗取事件(ダッカ事件)=1977年9月29日
1977年当時の日本国総理大臣=福田赳夫氏が「一人の生命は地球より重い」とぬかしたので有名な事件。
パリ(シャルル・ド・ゴール空港)始発、アテネ・カイロ・カラチ・ムンバイ・バンコク・香港経由の東京国際空港(羽田)行きの日本航空472便(乗員14人+乗客142名)が、経由地のムンバイを離陸直後、拳銃・手榴弾等で武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。飛行機はインド・カルカッタに向かったが、進路変更でバングラデシュDhaka(ダッカ)のTejgaon(テジガオン)空港に着陸を強行した。赤軍サイドの要求は以下の通り。
①人質の身代金として600万ドル(当時の為替で16億円程度)。②日本で服役および勾留中の9名の釈放と日本赤軍への参加
これを拒否又は無回答の場合は、人質を順次殺害すると警告し、「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件も付けられた。当時のアメリカ大統領=J. Carterと懇意にしているアメリカ人銀行家が乗客にいた事を犯人グループも知っていた。日本政府は身代金支払い、超法規的措置=収監メンバー釈放引き渡しを決定。(釈放されたメンバーは6人)この背景にアメリカへの外交的配慮もあったとされる。


この事件の影響は非常に大きかった。日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのが、クアラルンプール事件以来2回目となった事で、福田赳夫は引責辞任した。バングラデシュでは10月2日、この事件のどさくさを突いての軍事クーデターが勃発した。クーデター自体は、数時間で鎮圧されて未遂に終わっている。
これでハイジャック機と日本からの救援機はダッカを出発。ダッカで既に人質118人を解放したが、ダッカを発ってクウェイト・シリアを経由してアルジェリアのアルジェに到着した。アルジェリアは当時、国際ゲリラ革命組織の有力支援国だった事が大きな要素らしい。


ジャカルタ日本大使館等手製弾発射事件(ジャカルタ事件)=1986年5月14日
ジャカルタにあるアメリカ大使館・日本大使館にロケット弾が発射され、カナダ大使館前の車が爆破された事件。事件後に世界各地主要都市にある報道機関に「反帝国主義国際旅団」からの犯行声明が届いた。現場検証でロケット弾発射元から日本赤軍メンバー・城崎勉の指紋が採取され、日米捜査当局は日本赤軍の犯行と断定した。犯人の城崎は事件の10年後=1996年にアメリカで拘束された。


ローマ米英大使館爆破事件(ローマ事件)=1987年6月9日

ナポリ米軍施設前車両爆破事件(ナポリ事件)=1988年4月14日

日本赤軍、改めて見ると中々輝かしい戦績?を御持ちの様だが…、次回=Chapter 17へと続く!



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この「2022年、大きな節目」では、今年2022年に「大きな記念の節目」を迎える人や出来事、物をフィーチャーしている。百寿=1922年から始まり、現在は中老・五十路=50歳・50周年・半世紀を迎える=1972年の物事をフィーチャーしている。

前記事の「1972年にNY Timesで出された記事」において名指しされたテロ組織の話の続きになる訳だが…、

ウルグアイのTupamaros(トゥパマロス)。「世界一貧しい大統領」ことウルグアイ東方共和国の第40代大統領(2010~15)・José Alberto Mujica Cordano(ホセ・ムヒカ)氏が嘗てこの構成員だったという事で御存知の方も多かろう。同氏はこのメンバーとして様々な襲撃や誘拐にも関与し、実際の戦闘を戦って受けた銃弾は計6発で、重傷を負った経験もある。逮捕・投獄も合計4回経験して、その内2回は脱獄している。1972~85年までのその殆どを獄中で過ごし、軍事政権側の人質として扱われた。
ムヒカ氏の妻=Lucía Topolansky(ルシア・トポランスキー)前副大統領(第17代・2015~20)もトゥパマロスのメンバーだった。


Tupamarosの名はペルーの反乱指導者だったTúpac Amaru II(トゥパク・アマル2世・トゥパマロ)=本名José Gabriel Condorcanqui Noguera(ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ)に由来する。因みにTúpac Amaruはインカ帝国(Incas de Vilcabamba・ビルカバンバ)最後の皇帝の名。(即位の翌年=1572年にスペイン軍に捉えられ斬首された、享年27)
この集団は、1962年に社会主義活動家のRaúl Sendic(ラウル・センディック)他20名によって結成された。センディック氏だが、チェ・ゲバラに影響されて社会主義者になっている。彼は労働者への抑圧を見て、自分の目標を平和的に達成する事は決してないだろうと悟った様だ。


そして1962年5月5日、センディックは数人のサトウキビ労働者とともに、モンテビデオのウルグアイ連合の建物を攻撃して燃やした。これはツパマロスの最初の行動になった。最大で5000人のメンバーがいたとされる。60年代のウルグアイは経済危機にあえいでて、その中でトゥパマロスはラテンアメリカ最強の都市ゲリラとして、政府要人の誘拐や外国企業の襲撃を繰り返した事で、一世を風靡して多くの人の支持も集めていた。1971年大統領選挙を契機にはツパマロスの活動はいよいよ過激化して治安組織との抗争も激化。警察の拠点を襲撃したり、タクシー会社を襲撃して無線機を強奪すると言った事件も起きた。

1972年、実に30万人ものウルグアイ人を監視していたともいわれるウルグアイ軍内の「死の中隊」(国営白色テロ)の軍人暗殺事件から同国は内戦状態に陥った。同年に大統領になったJuan María Bordaberry Arocena(フアン・ボルダベリー)政権下で、国内治安の回復という名目で、軍・警察の総力を挙げツパマロス壊滅を実行。1973年までにセンディックら2000人のメンバーが逮捕され、ツパマロスは壊滅状態になった。これで軍部の発言力が大幅に強まり、それでクーデターが勃発。以降1985年まで軍事政権が敷かれた。この時代、労働人口の20%が治安組織要員という異常な警察国家体制になった。
1985年から民政移管となって、ツパマロスのメンバーは釈放され、武装闘争を放棄した同組織は合法政党となって拡大戦線に合流した


昔も今もラテンアメリカは左翼ゲリラや凶悪なテロ組織の温床である。治安が悪い国のランキング上位にラテンアメリカの国は常に入っている。
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エリトリア解放戦線=Eritrean Liberation Frontはアフリカ東部で活動するエチオピア・エリトリアの反政府組織エリトリア国=State of Eritreaというと今でも共産主義体制を敷いている国だが、2001年に政府要人の半分が逮捕され、逮捕された面々の所在は今でも分かっていないらしい。現在でもマルクス主義の影響を受けたゴリゴリの共産主義・社会主義国である。

ELF=エリトリア解放戦線は1958年に結成され、1960年7月に至ってカイロにおいて正式に結成を発表した。結成当初はイラク・シリアの支援を受けたムスリム運動的な色彩の強い組織として、構成員の殆どがイスラム教徒だった。しかしエチオピアと連邦化されて抑圧を受けるに至り、キリスト教徒も参加する様になった。1961年にハミド・イドリス・アワテ=Hamid Idris AwateがELFの軍事部門を編成し、独立への闘争開始を宣言した。エチオピア帝国政府及びエチオピア軍に対する武装闘争を開始し、ゲリラ戦による闘争を継続、これでエリトリア独立戦争のゴングが鳴らされた。だが、翌1962年、エリトリアはエチオピアの州=エリトリア州として併合されてしまった

このELFの闘争は1970年代に入っても続いて順調に成果を挙げていた様だが、70年6月にPopular Liberation Forces(エリトリア人民解放軍・PLF)が分派し、更にPLFからマルクス主義者・キリスト教徒を中心としたEritrean People's Liberation Front(エリトリア人民解放戦線・EPLF)が分派。1972~74年にはELFとEPLFが内戦を起こした。この内戦にエチオピアが付け込んで攻勢を仕掛けた事もあって、立運動の中心的役割がEPLFに移って、総てのエリトリア独立勢力が疲弊した。そこで1975年初頭にEPLFとELFは一旦和解した。だが、1980~81年にかけて再び内戦になり、Tigrayan People's Liberation Front(ティグレ人民解放戦線・TPLF)とEPLFの連合ELFは敗れ、1981年にスーダンへの退去を余儀なくされた。

全部がスーダンに退去した訳ではなく、エリトリアに残った勢力は分派して、Eritrean Liberation Front-Revolutionary Council=エリトリア解放戦線革命評議会(ELF-RC)を結成。その翌1982年、やはり一部勢力が分派してEritrean Liberation Front-Central Command=エリトリア解放戦線中央司令部(ELF-CC)を結成した。又、この時期にEritrean Liberation Front - United Organization=エリトリア解放戦線統一組織(ELF-UO)も分派した。

一方、エチオピアでは1974年9月にエチオピア革命が起きて、皇帝・帝政は打倒された。翌75年にエチオピア帝国は完全に滅亡、社会主義軍事政権になった。同11月にはMengistu Haile Mariam(メンギスツ・ハイレ・マリアム)が実権を掌握し、1977年にクーデターを起こして独裁を敷いた。このメンギスツというヤツ、1991年までに数十万の反対派を粛清し、戦争や飢餓の拡大などにより国内から100万人の難民を出したとされる。この時代もエチオピア内戦は継続していた。1987年からはエチオピア労働者党による一党独裁制を敷いたが、反政府勢力との内戦=エリトリア独立戦争・オガデン戦争を経て、1991年にメンギスツ政権は倒れて、本人はジンバブエに亡命

このメンギスツ政権が倒れるまでに、ELFもまたエリトリア領内に再突入していた。ただ、メンギスツ政権を倒しエリトリアを独立に導いた中心になったのはEPLFとTPLFだった。
エリトリアは1991年5月29日に独立宣言、1993年5月24日国連の承認を受けると、EPLFは1994年2月にFronte Popolare per la Democrazia e la Giustizia=民主正義人民戦線(PFDJ)に改称・改組して一党独裁制を敷いたので、ELFは非合法化された。


非合法化後のELFエリトリア反体制勢力連合体、Eritrea National Alliance=エリトリア国民同盟(ENA)の傘下に入って、2012年まではTFG=ソマリア暫定連邦政府に軍事的支援を受けていた模様。

今日はこんな所で、次回=Chapter 16へと続く!



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この企画では、今年2022年に「大きな記念の節目」を迎える人や出来事、物をフィーチャーしている。百寿=1922年から始まり、現在は中老・五十路=50歳・50周年・半世紀を迎える=1972年の物事をフィーチャーしている。

前記事で、「日本赤軍PFLPの共闘関係についての驚くべき事実が明らかになった。」と書いた。ただ、実際には以下の通りなら、日本赤軍PFLP以外にも共闘関係を結ぶテロ組織の世界的シンジケートが出来つつあったという事になる。

1972年にNY Timesで出された記事にはこういうものがあったので紹介する。
CIA=Central Intelligence Agency・中央情報局は最近、世界中の主なゲリラ組織が連合して、国際革命機構(International Revolutionary Organization)という名の組織を作りだしていた事を探知した。
この組織は、これまで各国のバラバラに活動していた各ゲリラ組織が、これからは戦闘行動において共同行動を取るために作られた組織である。そして、ロッド空港事件は、この国際革命機構の最初の活動として計画され、実行されたものである。
この組織に参加しているゲリラ組織には、アメリカのWeatherman(ウェザーマン)Black Panther Party,(BPP・ブラックパンサー)、西ドイツのRote Armee Fraktion(ドイツ赤軍)、日本の赤軍派、パレスチナゲリラのPLFP、アイルランドのIRA、ウルグアイのTupamaros(トゥパマロス)など世界の過激派を網羅している。そして、国際革命機構の本部事務所は、スイスのチューリッヒに置かれ、各国のその支部がある。
(その他、エチオピアのエリトリア解放戦線、トルコのTPLAもここに関わっていた


この時期には、世界各国の過激派の間で共闘が実現しようとしていた模様だった。彼らの共通の攻撃目標はアメリカに代表される資本主義国家の体制であり、パレスチナ人民の土地を奪ったイスラエルだった。ここに名前の出て来た組織はこの時代の各地域を代表する様な凶悪テロ組織である。

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その中から幾つか挙げて述べて行くと…
先ず、ドイツ赤軍だが、これはUlrike M. Meinhof(ウルリケ・マインホフ)及びAndreas Baader(アンドレアス・バーダー)を始祖として1968年に結成された。「反帝国主義」を標榜し、暴力も辞さない広範な反体制活動で、西側資本主義を打倒し、マルクス主義による世界革命を目指していた。そのため銀行強盗、爆破、誘拐、窃盗など非合法活動も含めたあらゆる革命行動を行った。1970年代から1998年まで活動を行い、20年以上の活動で主なターゲットにしたのは、政府公共施設、政府政界関係者、法曹関係者、軍需産業幹部、西ドイツ駐留アメリカ軍などで、多数の著名ドイツ人を殺害したとされる。


アメリカのWeatherman(ウェザーマン)についてだが、
1968年に設立されたこのグループは、民主的社会を求める学生グループの破片組織だった。この名の由来はBob Dylanの曲「Subterranean Homesick Blues」の中の一節、「You don't need a weather man to know which way the wind blows」という所から取られた。60年代の左翼組織、Students for a Democratic Society=SDS(民主的社会を求める学生)からスピンオフした 極左学生グループによって結成されたこの極左組織は69年からテロ活動を本格化。


その主だった「戦績」としては…
1968年の民主党大会でベトナム戦争に抗議しようとして、暴動を企てた容疑で逮捕起訴されていた「Chicago 7」と呼ばれる7人の「革命家」の釈放を要求して、1969年10月8日、287人の党員がシカゴでデモ行進し、4日間警官隊と市街戦を行った。この4日間はDays of Rageと呼ばれる。
同年12月6日、シカゴ市内で数台のパトカーを党員が爆破した。これは、その前々日にBlack Panther Party党員2名(=Fred Hampton及びMark Clark)が就寝中に警官に射殺された事への報復であった。
1970年2月13日、カリフォルニア州バークリーの警察署内に駐車されていた車両が爆破された。2月16日にはサンフランシスコ市内の交番で爆弾が爆発し、警官1人が死んだ。また、3月6日にはデトロイト市警第13分署で、党員が仕掛けた37本のダイナマイトが発見された。この同日、グリニッチビレッジの家で爆弾を作っている間に3人のメンバーが殺された。この事件はグループを完全に地下に追いやる結果となった。


1970年5月10日、ワシントンD.C.にある州兵協会の建物が爆破された。これは、オハイオ州のKent State Univ.=ケント州立大学でベトナム反戦デモをしていた学生4人を州兵が発砲射殺した事への報復であった。
7月27日、カリフォルニア州のプレシディオ陸軍基地が爆破されたが、これはキューバ革命11周年の「記念行事」だったらしい。10月8日、カリフォルニア州北部はマリン郡のSan Rafael(サンラファエル)地方裁判所を爆破した。これは8月7日、BPP党員George Jackson(ジョージ・ジャクソン)の死刑判決に抗議して同裁判所に立て籠ったその実弟Jonathan Jacksonらに対する殺害に対する報復であった。


1971年になって3月1日、アメリカのラオスに対する侵略に抗議してアメリカ合衆国議会議事堂で爆弾を爆発させた。数十万ドルの物的損害はあったが、負傷者は出なかった。
同年8月29日にはジョージ・ジャクソンの処刑に抗議してカリフォルニア州の刑務局を爆破し、9月17日にはNY州Albany(オールバニ)の州矯正局をアッティカ刑務所で起きた暴動に対する武力鎮圧に抗議する目的で爆破した。9月17日にはニューヨーク州オールバニの州矯正局を、The Attica Correctional Facility(アッティカ刑務所=主に凶悪犯を収容)で起きた暴動への武力鎮圧に抗議する目的で爆破した。


1972年5月19日、北爆の再開に抗議してペンタゴンの空軍担当区域の女性用バスルームで爆弾を爆発させた。この5月19日はHồ Chí Minh(ホー・チ・ミン)の誕生日。

1973年5月18日、警官による当時10歳の黒人少年殺害に抗議してNY市警察第103分署庁舎を爆破した。同年9月28日、同年9月11日に発生したGolpe de Estado Chileno(チリ・クーデター)に対する関与に抗議してNY・ローマの国際電話電信会社 (ITT) 本社を爆破。チリ・クーデターは自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を武力で倒して新自由主義的な経済政策を押し付けるべく、米国政府等がチリ軍部を裏で操って起こした。
1974年9月11日(チリ・クーデター1周年の日)には同じ目的でアナコンダ社を爆破した。


1975年6月11日、ニューヨークでプエルトリコ系のポンセ銀行を爆破した。ウエザーマン側は、プエルトリコでストライキ中だったセメント労働者への連帯の意思表示だとしている。

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同じくアメリカで猛威を振るったBlack Panther Party=BPPだが、公民権運動の中から生まれた集団であったが、上記のNY Timesの記事が出た頃には勢いを失っていた。
公民権運動~BPP登場をいう流れを遡ると1920年代に行着く様である。その時代、NYのハーレムを中心に、Harlem Renaissance(ハーレム・ルネッサンス)と呼ばれる黒人文化の黄金時代が訪れた。このムーヴメントは30年代の大恐慌や更にその後の第2次世界大戦で下火になってしまうが、ヨーロッパでの戦争に参加した多くの黒人がそこで、自国アメリカでの差別を異常であると思う様になった。戦後に彼等の多くが大学に入学し、知識を身に付けて行った。これで1950年代に入り再び黒人の地位向上運動が本格化するという流れが出来た。


暴力容認を宣言して誕生したBPPは、武器携帯を認め、空手他の武道を身に着けさせて軍隊に近い組織を作って行ったが、最初から武装闘争ありきだった訳では無かった様だ。結成当時の中心メンバーだったHuey P. Newton(ヒューイ・ニュートン)は「BPPの10項目の綱領」なるものを作った。
その内容は以下の通り
「僕たちを育てるために一生懸命頑張った母、僕たちを食べさせるために必死で働いた父、学校へ行ってもほとんど字を覚えないままブロークンな言葉しか話せなかった兄弟達、その全ての人に理解してもらうための10項目綱領。」
1.我々は自由がほしい。我々は、黒人社会の運命を決定する力がほしい。2.我々は、黒人大衆の完全雇用を望む。
3.人間が住むに値する家がほしい。4.我々は、全ての戦争と攻略の即時終局を望む。
5.地域社会において黒人大衆が受けるに相応しい教育を望む。この退廃した人種社会の性質を我々に教え黒人の若い男女に、社会における自分の位置を教える教育制度を求める。もし、この社会と世界における位置を知らなければ、我々は、如何なるものとも自己を結びつけることはできないだろう。
6.人種主義的白人商人が、黒人大衆を搾取することを止めて欲しい。7.全ての抑圧された大衆に、完全無料健康保障を望む。
8.黒人大衆及び他の有色人種に対する警官の残虐行為と殺人を、直ちに止めてほしい。
9.都市、郡、州および連邦刑務所に収容中の黒人をすべて釈放してほしい。なぜなら、白人だけで構成される陪審によって裁かれることは、ユダヤ人がナチ・ドイツに裁かれたのと同じであるから、公平な裁判を受けられたとは考えらえないからである。
10.我々が欲しいのは、土地、パン、家、衣服、教育、正義そして平和と近代技術をコミュニティでコントロールしうる力である


1963年は、アメリカにおける人種間対立激化の年として歴史に刻まれた。1961年に発足したJFK政権は人種融和に積極的だった。JFK大統領が議会に人種差別撤廃の特別教書を提出したのが1963年6月。8月28日には人種差別反対を訴える伝説のワシントン大行進が行われ20万人が参加、そこでMartin Luther King氏の有名な「I Have a Dream」の演説と、それに対する「We Shall Overcome」の大合唱があった。これで、キング牧師が指導する公民権運動はクライマックスに到達し、11月にJFK暗殺事件が起きたが、1964・65年には相次いで強力な公民権法が成立。

公民権法成立を受けても、北部・西部の大都市スラム街に住む黒人は名目だけの平等では「ナ・マ・ヌ・ル・イ~~ッ!」として不満を高め、キング牧師が唱える非暴力主義に反抗して実力行動に訴える者も多くなり、1964年から68年まで、Long and Hot Summerと呼ばれる黒人暴動が頻発した。そこに来て、65年2月にマルコムX暗殺事件が起きて、暴力的な方向に加速する。
そして1966年8月にSeattleにてBPPが立ち上がった。そこで指導者に選ばれたのはブラックパワーの提唱者Stokely S. C. Carmichael(ストゥクリー・カーマイケル)だった。しかし、彼はすぐに闘争方針の違いから党を脱退してしまう。BPPは立ち上げからにはしくじる危うさがあったと言える。
最初から武装闘争ありきではなかったBPPが大きく暴力化したきっかけは、1968年4月のMartin Luther King牧師の暗殺だと言われる。


随分長くなったのでこの先は次回、Chapter 15にキャリーオーバーする!



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1972年はミュンヘンオリンピックの年でもあったが、過激派に関わる様々な大事件が起きた年でもあった。前記事でも出て来たミュンヘンオリンピック事件、これも非常に凶悪なテロ事件だったが、これより前の同年5月30日にパレスチナ解放人民戦線(PFLP)日本赤軍(当時はアラブ赤軍)が起こした凶悪なテロ事件も忘れてはならない。所謂テルアビブ空港乱射事件=ロッド空港乱射事件、リッダ闘争の別名を持つ。Lod Airport(ロッド空港)は現在のBen Gurion International Airport(ベン・グリオン)国際空港の旧名で、この事件を英語ではLod Airport Massacreという。
因みに、北アイルランド血の日曜日事件が起きたのもこの年だった。


ロッド空港事件はどういう事件だったかについて触れて行く
この事件実行犯である日本赤軍は、赤軍派出身の重信房子や元京都パルチザンの奥平剛士等が、赤軍派の「国際根拠地論」に基づき偽装結婚した上でパレスチナへ赴き、PFLPへの国際義勇兵として1971年2月から参加した。これが始まりだが、日本赤軍を名乗る様になったのは1974年。
重信房子の娘=重信メイ(戸籍上は奥平メイ・49歳)嬢は1973年3月にベイルートで出生した事になっている。彼女の実父はパレスチナ人の活動家らしい。
あさま山荘事件の折には、「赤軍派の同志諸君ならびに連合赤軍の同志諸君そして友人たちへ」を発表し、赤軍派からの訣別及び独自の立場での革命運動展開を宣言した。


このテルアビブ空港事件にはいくつか伏線があった。この約4年前、1968年7月23日、El Al Flight 426 hijacking(エル・アル航空426便ハイジャック事件)が起きていた。ロンドン始発ローマ経由テルアビブ行きEL AL Israel Airlines(エル・アル航空)426便がローマ離陸後にPLFPのテロリスト3人にハイジャックされた。犯人グループは飛行機をアルジェリア首都のアルジェに着陸させた。事件は第3次中東戦争(1967)の翌年であり、アルジェリアイスラエルに宣戦布告していた事がこの背景にあった。

アルジェリア当局は、イスラエル国営のエル・アル航空をイスラエルの準軍事組織と認定していた。アルジェリアは犯行グループを保護しただけでなく、機体とイスラエル人乗客・乗務員22人もアルジェで人質にされた。40日に及ぶアルジェリア政府との交渉でイスラエルは、機体の返還・イスラエル人の釈放を実現した。これが成功体験になって、パレスチナ人テロリストによるイスラエルを標的にしたハイジャックが連鎖する。

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こういう流れがあって、1972年5月8日にパレスチナ過激派テロリスト=Black September(黒い9月)のメンバー4人が、ブリュッセル発ウィーン経由テルアビブ行き・Sabena(サベナ航空)572便=ボーイング707を乗っ取り、ロッド国際空港に着陸させ、イスラエル国内で刑務所に収監されている315人のパレスチナ人テロリスト全員の釈放を要求した。
更に、その要求が聞き入れられない場合は、572便を乗客乗員諸共爆破すると脅し、一度は実際に爆破の準備に取り掛かったものの、機長が犯人達を説得して実行に移される事は無かった。
結局はアイソトープ作戦という名の救出作戦が実行されて、Sayeret Matkal(サイェレット・マトカル)という特殊部隊の精鋭16名を機内に突入、10分程で犯人を制圧。犯人2人が射殺され、残る2名も逮捕、乗客1名が死亡、2名が負傷という結果に終わった。
この事件をサベナ航空572便ハイジャック事件という。


PFLPは、その報復としてロッド国際空港の襲撃を計画。しかし、同空港の警備体制は非常に厳しくアラブ人に侵入は困難という事で、日本赤軍に協力を依頼。こうして、5月30日に日本赤軍を実行犯としてテルアビブ空港乱射事件が起きた。

事件の実行犯となった日本赤軍のメンバー3人は、前出の奥平剛士(重信房子の書面上の夫)、鹿児島大学の学生だった岡本公三(「よど号グループ」・岡本武の実弟)、京都大学の学生だった安田安之。この3人は「ナンバ・ダイスケ」「スギサキ・ジロー」「トリオ・ケン」という名義のパスポート(無論、偽造)を所持していた。この内、「ナンバ」を持っていたのが唯一生き残った岡本公三だった。

パリからエール・フランス132便に乗ってテルアビブのロッド空港に着いた3人は、スーツケースからチェコスロバキア製VZ58自動小銃(ソ連製AK47という記述もあるが間違いの様)を取り出し、空港ターミナルで乱射を開始。加えて、エル・アル航空の旅客機にもVZ58を乱射し、スカンジナビア航空機には手榴弾を2発投げつけた。
この結果、26人が死亡し、73人が重軽傷を負った。そして、奥平と安田は死亡。奥平は警備隊の反撃で射殺され、安田は手榴弾で自爆したとされているが、詳しくは判明していない。岡本の証言によると、手榴弾による自爆の準備は行っていたと思われる。


この事件以前は空港の手荷物検査なんて非常に緩かったらしいが、それがこれを機に一気に大変厳しくなったと言われる。この事件はそれだけでなく、イスラム教過激派グループの戦い方を大きく変える端緒になった。
生命を天与のものとするイスラム教では本来、自殺は許されない大罪とされているが、イラン・イラク戦争で、少年が爆弾を体に巻き付けて戦車の前で自爆したのを、Ā. Rūhollāh Khomeinīルッホラー・ホメイニ)が称賛するという事があった。これがきっかけでイスラム教徒の間に自爆テロが広まることになったと言われているが、実際はそれ以前にこのロッド空港事件に於ける日本赤軍の戦い方が「KIMIKAZE」と称されて、高い評価を受けていたのも確かである。


岡本公三があれから50年経った今でもアラブでは英雄であることは間違いない。パレスチナ・レバノン双方の支持組織から援助を受けてレバノンに暮らしている。糖尿病と統合失調症を患っているが、糖尿病の方はかなり改善したらしい。
(逮捕後はイスラエルで終身刑になり服役するも1985年に捕虜交換で出獄、レバノンに渡るも1997に同国で禁固3年の刑に服し、2000年に亡命。ただ、日本警察からは国際手配中。)


岡本公三は逮捕後の裁判における最終陳述でこう述べている。
「世界のあらゆる所で、一国的限界にとらわれることなく、世界革命戦争に起こしていく。世界の人に警告しておく。これから同じ様な事件(無差別殺人テロ)は、ニューヨークで、ワシントンで次々に起こるブルジョワ側に立つ人間は、すべて殺戮されることを覚悟しておかねばならない」


この陳述がこの後の世の予言になったである。少なくともこの当時岡本公三と日本赤軍はパレスチナ・ゲリラにとっての英雄であり、その予告は確かにその後実現されることになった。彼らの戦い方は多くの過激派に影響を与え自爆テロ攻撃をジハード=異教徒との戦闘と位置付ける「新機軸」が生れて或る意味での革命だった。

このテルアビブの事件後、日本赤軍PFLPの共闘関係についての驚くべき事実が明らかになった。という訳で次回Chapter 14へと続く!



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この企画では、今年2022年に「大きな記念の節目」を迎える人や出来事、物をフィーチャーしている。百寿=1922年から始まり、現在は中老・五十路=50歳・50周年・半世紀を迎える=1972年の物事をフィーチャーしている。Chapter 8から浅間山荘事件の話に入ったが、今回Chapter 12でもこのネタの続きである。
激動の時代、丁度半世紀という事もあって1972は濃ゆいわぁ!


浅間山荘事件というと、あの伝説の巨大鉄球のイメージも強いが、何と言ってもカップヌードルがブレイクするきっかけになったのが有名。同商品はその前年9月に発売された世界初のカップ麺。一般的な袋麺が1食あたり25円程度だったのに対してこちらは100円と高価で、当初の売れ行きは鈍かった。

そこで浅間山荘の事件が起きて、同山荘を包囲する警察官の非常用食料としてカップヌードルが配られ、それを食べる様子がテレビ中継で繰り返し映し出された(視聴率は各局の合計ながら最高で89.7%、ワールドカップや紅白や五輪、Super Bowlさえ足元にも及ばない)。あの現場で機動隊員がカップヌードルを食べていたのは、用意された弁当は非常な低温ですぐに凍ってしまうためだった。
その後、カップヌードルは火が付いた様に超バカ売れ、生産が追いつかなくなった。あれから50年、同ブランドの商品は累計販売数500億食を超えた。


カップヌードルは日清食品にとっても救世主になった。1958年にチキンラーメンを発売して即席麺のマーケットをリードしたのも束の間、1959年には梅新製菓(現エースコック)が「エースコックの味付ラーメン」を、泰明堂(現マルタイ)が「即席マルタイラーメン」を発売。その他、大小問わず350社以上のメーカーが参入し、即席麺市場は瞬く間にレッドオーシャンと化した。
斯くして、即席麺はあっという間に成熟商品に仲間入り。60年代終盤には早くもそのパラダイムを変える新商品が求められた。ただ、当時で1杯100円という価格ではスーパーや小売店の店頭に並べてはもらえなかった。そこで「新しい商品は新しい販売システムで売れ。衝撃的な商品は必ず売れる。それ自身がルートを開いていくからだ」という安藤百福氏の信念の下、新たな販売ルートを開拓した。

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カップヌードルシリーズは今や種類豊富。このSiOCHEESE CURRYは今世紀になってから登場した

次世代ファッションフード、カルチャーフードの一面も持って走り始めたカップヌードルだが、日清食品の営業スタッフは遊園地や鉄道弘済会、警察や消防署等の各種官公庁、パチンコ店、旅館…、通常の食品ルート外からの販売を模索した。
その効果は着実に顕れ、朝霞駐屯地で演習中の陸自隊員がカップヌードルを食べる姿が見られる様になる等、「ファッションフード」でもありながら、その機能性がハードな現場で着実に支持される様になった。
こうしてデビューから半年も経たずに、その需要が爆発する瞬間が訪れたという訳であった。警視庁のキッチンカーから湯気が立ち上るカップヌードルが出される光景がTVに映し出されると、そこでベストセラー確定。「羽が生えたカップヌードル」と評される如く馬鹿売れして行って、その後は皆知る如し。


因みにCOSTCOのPB(=KIRKLAND)でもこのカップヌードルOEM商品が、嘗ては出ていた様である。

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カップヌードルではこのSEAFOODが小生個人のお気に入り。
SEAFOODは1984年登場なので、あさま山荘事件当時は存在していなかった。事件の時はカレーすら登場していなかった。

1972年は浅間山荘事件以外にも、ミュンヘンオリンピック事件(Münchner Olympia-Attentat・黒い9月事件ともいう)やテルアビブ空港乱射事件(Lod Airport Massacre)が勃発。
斯くして現在のSATの前身となる特殊部隊の創設が検討され始めたのだが、1977年に日本赤軍(重信房子でお馴染みの方)が引き起こしたダッカ日航機ハイジャック事件には間に合わなかった。5年もあったのにである。この遅さが日本らしいといえばそれまでだが…
ダッカ事件について日本政府はやむなく日本赤軍の要求を受け入れたが、ほぼ同時期に勃発したルフトハンザ航空181便ハイジャック事件とは対照的な結果になってしまい、日本政府の対応は当然ながら世界で批判の的に。

これをきっかけに遅ればせながら特殊部隊創設が急がれ、77年11月に漸く警視庁第6機動隊特科中隊と大阪府警第2機動隊零中隊という対テロ作戦部隊が発足。1982年夏頃には警視庁特科中隊の名称がSAP(Special Armed Police)となったが、1995年まではその存在が隠されていた。
1996年4月から警視庁・大阪府警以外にも、北海道・千葉・神奈川・愛知・福岡の5道県警察にも特殊部隊が作られて、Special Assault Team=SAT(正式には特殊部隊)の呼称が使われて、その存在も公にされる様になった。(2005年からは沖縄県警にも作られている)


浅間山荘事件の話に戻って…
映画監督の森達也氏は複数の連合赤軍メンバーを取材した経験があって、連合赤軍にはオウム真理教と重なる部分があると指摘する。更にNHKのインタビューに対して、浅間山荘事件をこう評している。


「集団になると、人は考え方が浅くなって非論理的になってしまう。浅間山荘事件を含む連合赤軍によるリンチ殺人から始まる一連の事件は、その典型だと思うね。」「兎に角閉鎖された集団の中で、非常に強い権力性を帯びたリーダーがいて、過度のストレスを全員が持っている。こういう状況で人は判断出来なくなる。後から、何であんな事をやってしまったのか?と後悔する。」「こういう事は沢山ある。日本史にも世界史にもね。そうしたことを端的に示す事件だったと思う」

「大きな組織の過ちは共通していて、理念は高尚だ。オウム真理教は、なぜあんな殺人事件をしたのか。根幹は世界を救済したい、守りたい、そう思っていた。」「赤軍派も、世界同時革命を起こす、貧しい人や虐げられた人々を救う、ブルジョアからプロレタリアートを守ると。」「でも、やっていることはあまりにもちぐはぐだと誰もが思う。組織の中にいると分からなくなってしまう。あさま山荘立て籠りを含む一連の事件で、1人1人が何を思っていたのか。メンバーの中には、どうなの?と思った人もいただろう。でも言葉に出来ない。言葉にすれば次は自分が粛正される可能性もあった。そのときに胸を張って、幹部に対し、待て、おかしいだろと言えば変わっていたかもしれない。誰も言えなかった。勇気がないのではなく、正しいだろうと自分の疑問を打ち消して、どんどん機械的になって12人の仲間を粛正し、あさま山荘事件に至ったのだろう。」

事件後から現在までの山荘はどうなったかというと…
浅間山荘事件の後、その翌1973年に改修増築が行われ、鉄筋コンクリート3階建から4階建に変わった。1989年に所有者が河合楽器から武蔵野市の個人に移り、2008年には香港に本部のある止生会という中国系の社団法人が所有する様になった。保存状態はそれなりに良い様だ。
購入当時、この法人の代表は、「山荘事件からもうすぐ40年。50周年=半世紀たった時にはすごいぞ!。1人1000円の入場料で充分だ」と息巻いていたらしい。浅間山荘を観光目的で使って大儲けしようとしていたのは明らか。
そして2022年、事件から50年という記念の時を迎えたものの、その皮算用は実現していない。たとえ観光スポットとして整備しても、こんな場所まで訪れる人はほとんどいないだろう。南軽井沢の山奥ではアクセスが如何せん悪過ぎる。


地元の不動産屋のある所に語った事からすると…、
浅間山荘が今でも残っている事を、地元の人もあまり知らないらしい。
浅間山荘がある南軽井沢の別荘地は、築年数が古い物件が多く、山深い場所なので、あまり人気がない。(その代わり値段は安い)
山荘が建築されたのが1969年、そこから3年であの事件の舞台になってしまった。そんな事が起きたら建物は解体するのが普通だが、築3年であの山荘を解体するのは余りに勿体無いとの判断が働いて残されたのではないか。
それが築年数も古くなった今はあのサイズもあって却って使いづらい。もし今、売りに出されても、買い手が出て来る可能性は低いであろう。


1973年頃から学生運動も新左翼運動も下火になって平穏になった様に見えた。大学は静かになったが、暴力の年齢が下がって行って70年代後半~80年代前半の校内暴力にガチャコーン!と接続してしまうのだった。高校→中学→小学校という具合に暴力による汚染が広がって行った。50代の小生はこの校内暴力の真っ只中で幼少期~人格形成期を過ごしてしまった。この事は小生の世代には非常なディスアドバンテージになったのは間違いない。
小生の世代は自己肯定感又は否定感が過剰で病んでいる人間が多いと言われれば、反論は出来ない。実際にそうなのだろうから。


浅間山荘で5回もやれたのは予想以上だったが、次回以降何がフィーチャーされるのか?
そして1982年・92年・2002年とかは何時になったら取り掛かれるのか少々不透明だが、途中で投げ出す気はないので御安心を。
てなわけで、次回Chapter 13に乞うご期待!




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