この「2022年、大きな節目」では、今年2022年に「大きな記念の節目」を迎える人や出来事・物をフィーチャーしているが、只今Chapter 16では半世紀を迎える=1972年の物事をフィーチャーしている。1972年はネタの玉手箱なので、相当長くなりそうだ。
1972年に浅間山荘事件を起こしたのは連合赤軍だが、テルアビブの空港で乱射事件を起こしたのは日本赤軍。ここからは日本赤軍について軽くだが総括する。
先ず、日本赤軍が起こした数多くのテロ事件の中で、その代表格と呼べる事件を列挙すると…
テルアビブ・ロッド空港乱射事件=1972年5月30日
日航ジャンボ機乗取事件(ドバイ事件)=1973年7月20日
日本赤軍5人+PFLP4人、合計9人の犯人グループが乗客乗員145人を乗せた日本航空のパリ発アムステルダム・アンカレッジ経由(時代を感じる)羽田行きの404便をハイジャックした。アムステルダム離陸後グループの1人が手榴弾を誤爆して死亡。これを機に作戦変更をしたのかその直後にハイジャックを実行。UAEのドバイ、シリアのダマスカスを経て、リビアのBenghazi(ベンガジ)にあるBenina=ベニナ空港に到着。24日に人質全員を解放し脱出させた直後、機体を爆破した上でリビア当局に投降した。犯人グループはリビア政府の援助を受けて国外逃亡を果たした。
シンガポール製油所襲撃事件(シンガポール事件)=1974年1月31日
日本赤軍2人(和光晴生・山田義昭)+PFLPメンバー2人=計4名が、シンガポールのブクム島にあるRoyal Dutch Shell plc(ロイヤル・ダッチ・シェル)の石油精製施設にボートで上陸し、石油タンクなどの施設をプラスチック爆弾で爆破した。この6日後=2月6日になって、日本赤軍+PFLPが在クウェート日本大使館占拠事件を起こした。これでシンガポールで事件の犯人を乗せたJAL特別機はクウェイトに向かう事となった。この特別機は両方の事件の犯人グループ+日本政府やPLO(パレスチナ解放機構=クウェイトでの事件解決の為の仲介役だった)の関係者を乗せて南イエメンのアデンに行って現地で投降、その後南イエメン政府の黙認を受けて犯人グループは逃亡した模様。
ハーグでのフランス大使館占拠事件(ハーグ事件)=1974年9月14日
事件の2ヶ月前、日本赤軍の山田義昭がParis-Orly(パリ・オルリー)空港で偽造紙幣所持+偽造旅券行使の容疑で逮捕された。山田の奪還を狙ってオランダはハーグにあるフランス大使館を襲撃し、大使らを人質にフランス当局と山田を交換する交渉を行う事にした。和光晴生・奥平純三・西川純というメンバー3人(奥平純三は奥平剛実弟)は9月10日チューリッヒで合流して鉄道でオランダ入りした。14日になって直ぐ、3人はフランス大使館に拳銃と手榴弾で武装して侵入、大使ら11人を大使室に監禁し、山田の釈放引き渡し、脱出用航空機+慰謝料100万$を要求。この間にもオランダ警察と銃撃戦になった。(この時の人質に当時の大使であったJacques Senard氏がいた。同氏はRenaultの現Chairman=Jean-Dominique Senard氏の父)
この事件勃発翌日にはPLFPのテロリストでカルロスことIlich Ramírez Sánchez(イリイチ・ラミレス・サンチェス=超凶悪テロリスト)がパリで爆弾テロを起こして、日本赤軍に援護射撃を加えた。
結局17日にオランダ政府が30万$を払い、フランス政府も要求を呑んで山田を釈放の上、逃亡用のAir Franceのボーイング707も用意した。18日早朝に人質は全員解放され、山田と犯人グループ3人はアムステルダムのAmsterdam Airport Schiphol(スキポール空港)から出国。
イエメン人民民主共和国・首都のAden(アデン)に行ったが拒否され、燃料補給後にシリアのダマスカス国際空港に行く。そこで、30万ドル他携行物等の全放棄という条件を呑んでシリア当局へ投降した。
在クアラルンプール米大使館領事部・スウェーデン大使館占拠事件(クアラルンプール事件)=1975年8月4日
武装した日本赤軍のメンバー5人が、マレーシアの首都のクアラルンプールにある、アメリカとスウェーデン大使館を襲撃・占拠し、館内にいたアメリカの総領事を含む52人を人質に取った。赤軍サイドは人質の解放とバーターで日本国内で拘留・服役中のメンバー7人の釈放を日本政府に要求。この7人の内、日本赤軍への参加意思を示した5人を釈放・出国させた。この保釈は検察庁法第14条但し書きに準ずる形の超法規的措置として行われた。釈放の5名は出国し、犯人グループは7日にJAL機(ダグラス DC-8)でリビアに向け出国。8日にリビア政府に投降。
この2年後、野村秋介等の右翼活動家4人が所謂「経団連襲撃事件」を起こした。クアラルンプール事件で日本政府が日本赤軍に屈し、その要求を呑んだ事に影響されての事件と言われている。「戦後体制の欺瞞に鉄槌を下す」という目的で、拳銃・猟銃・日本刀で武装し経団連会館に侵入し、職員12名を人質にとり、7階の会長室に約11時間監禁籠城した。
ダッカ日航機乗取事件(ダッカ事件)=1977年9月29日
1977年当時の日本国総理大臣=福田赳夫氏が「一人の生命は地球より重い」とぬかしたので有名な事件。
パリ(シャルル・ド・ゴール空港)始発、アテネ・カイロ・カラチ・ムンバイ・バンコク・香港経由の東京国際空港(羽田)行きの日本航空472便(乗員14人+乗客142名)が、経由地のムンバイを離陸直後、拳銃・手榴弾等で武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。飛行機はインド・カルカッタに向かったが、進路変更でバングラデシュはDhaka(ダッカ)のTejgaon(テジガオン)空港に着陸を強行した。赤軍サイドの要求は以下の通り。
①人質の身代金として600万ドル(当時の為替で16億円程度)。②日本で服役および勾留中の9名の釈放と日本赤軍への参加
これを拒否又は無回答の場合は、人質を順次殺害すると警告し、「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件も付けられた。当時のアメリカ大統領=J. Carterと懇意にしているアメリカ人銀行家が乗客にいた事を犯人グループも知っていた。日本政府は身代金支払い、超法規的措置=収監メンバー釈放引き渡しを決定。(釈放されたメンバーは6人)この背景にアメリカへの外交的配慮もあったとされる。
この事件の影響は非常に大きかった。日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのが、クアラルンプール事件以来2回目となった事で、福田赳夫は引責辞任した。バングラデシュでは10月2日、この事件のどさくさを突いての軍事クーデターが勃発した。クーデター自体は、数時間で鎮圧されて未遂に終わっている。
これでハイジャック機と日本からの救援機はダッカを出発。ダッカで既に人質118人を解放したが、ダッカを発ってクウェイト・シリアを経由してアルジェリアのアルジェに到着した。アルジェリアは当時、国際ゲリラ革命組織の有力支援国だった事が大きな要素らしい。
ジャカルタ日本大使館等手製弾発射事件(ジャカルタ事件)=1986年5月14日
ジャカルタにあるアメリカ大使館・日本大使館にロケット弾が発射され、カナダ大使館前の車が爆破された事件。事件後に世界各地主要都市にある報道機関に「反帝国主義国際旅団」からの犯行声明が届いた。現場検証でロケット弾発射元から日本赤軍メンバー・城崎勉の指紋が採取され、日米捜査当局は日本赤軍の犯行と断定した。犯人の城崎は事件の10年後=1996年にアメリカで拘束された。
ローマ米英大使館爆破事件(ローマ事件)=1987年6月9日
ナポリ米軍施設前車両爆破事件(ナポリ事件)=1988年4月14日
日本赤軍、改めて見ると中々輝かしい戦績?を御持ちの様だが…、次回=Chapter 17へと続く!
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1972年に浅間山荘事件を起こしたのは連合赤軍だが、テルアビブの空港で乱射事件を起こしたのは日本赤軍。ここからは日本赤軍について軽くだが総括する。
先ず、日本赤軍が起こした数多くのテロ事件の中で、その代表格と呼べる事件を列挙すると…
テルアビブ・ロッド空港乱射事件=1972年5月30日
日航ジャンボ機乗取事件(ドバイ事件)=1973年7月20日
日本赤軍5人+PFLP4人、合計9人の犯人グループが乗客乗員145人を乗せた日本航空のパリ発アムステルダム・アンカレッジ経由(時代を感じる)羽田行きの404便をハイジャックした。アムステルダム離陸後グループの1人が手榴弾を誤爆して死亡。これを機に作戦変更をしたのかその直後にハイジャックを実行。UAEのドバイ、シリアのダマスカスを経て、リビアのBenghazi(ベンガジ)にあるBenina=ベニナ空港に到着。24日に人質全員を解放し脱出させた直後、機体を爆破した上でリビア当局に投降した。犯人グループはリビア政府の援助を受けて国外逃亡を果たした。
シンガポール製油所襲撃事件(シンガポール事件)=1974年1月31日
日本赤軍2人(和光晴生・山田義昭)+PFLPメンバー2人=計4名が、シンガポールのブクム島にあるRoyal Dutch Shell plc(ロイヤル・ダッチ・シェル)の石油精製施設にボートで上陸し、石油タンクなどの施設をプラスチック爆弾で爆破した。この6日後=2月6日になって、日本赤軍+PFLPが在クウェート日本大使館占拠事件を起こした。これでシンガポールで事件の犯人を乗せたJAL特別機はクウェイトに向かう事となった。この特別機は両方の事件の犯人グループ+日本政府やPLO(パレスチナ解放機構=クウェイトでの事件解決の為の仲介役だった)の関係者を乗せて南イエメンのアデンに行って現地で投降、その後南イエメン政府の黙認を受けて犯人グループは逃亡した模様。
ハーグでのフランス大使館占拠事件(ハーグ事件)=1974年9月14日
事件の2ヶ月前、日本赤軍の山田義昭がParis-Orly(パリ・オルリー)空港で偽造紙幣所持+偽造旅券行使の容疑で逮捕された。山田の奪還を狙ってオランダはハーグにあるフランス大使館を襲撃し、大使らを人質にフランス当局と山田を交換する交渉を行う事にした。和光晴生・奥平純三・西川純というメンバー3人(奥平純三は奥平剛実弟)は9月10日チューリッヒで合流して鉄道でオランダ入りした。14日になって直ぐ、3人はフランス大使館に拳銃と手榴弾で武装して侵入、大使ら11人を大使室に監禁し、山田の釈放引き渡し、脱出用航空機+慰謝料100万$を要求。この間にもオランダ警察と銃撃戦になった。(この時の人質に当時の大使であったJacques Senard氏がいた。同氏はRenaultの現Chairman=Jean-Dominique Senard氏の父)
この事件勃発翌日にはPLFPのテロリストでカルロスことIlich Ramírez Sánchez(イリイチ・ラミレス・サンチェス=超凶悪テロリスト)がパリで爆弾テロを起こして、日本赤軍に援護射撃を加えた。
結局17日にオランダ政府が30万$を払い、フランス政府も要求を呑んで山田を釈放の上、逃亡用のAir Franceのボーイング707も用意した。18日早朝に人質は全員解放され、山田と犯人グループ3人はアムステルダムのAmsterdam Airport Schiphol(スキポール空港)から出国。
イエメン人民民主共和国・首都のAden(アデン)に行ったが拒否され、燃料補給後にシリアのダマスカス国際空港に行く。そこで、30万ドル他携行物等の全放棄という条件を呑んでシリア当局へ投降した。
在クアラルンプール米大使館領事部・スウェーデン大使館占拠事件(クアラルンプール事件)=1975年8月4日
武装した日本赤軍のメンバー5人が、マレーシアの首都のクアラルンプールにある、アメリカとスウェーデン大使館を襲撃・占拠し、館内にいたアメリカの総領事を含む52人を人質に取った。赤軍サイドは人質の解放とバーターで日本国内で拘留・服役中のメンバー7人の釈放を日本政府に要求。この7人の内、日本赤軍への参加意思を示した5人を釈放・出国させた。この保釈は検察庁法第14条但し書きに準ずる形の超法規的措置として行われた。釈放の5名は出国し、犯人グループは7日にJAL機(ダグラス DC-8)でリビアに向け出国。8日にリビア政府に投降。
この2年後、野村秋介等の右翼活動家4人が所謂「経団連襲撃事件」を起こした。クアラルンプール事件で日本政府が日本赤軍に屈し、その要求を呑んだ事に影響されての事件と言われている。「戦後体制の欺瞞に鉄槌を下す」という目的で、拳銃・猟銃・日本刀で武装し経団連会館に侵入し、職員12名を人質にとり、7階の会長室に約11時間監禁籠城した。
ダッカ日航機乗取事件(ダッカ事件)=1977年9月29日
1977年当時の日本国総理大臣=福田赳夫氏が「一人の生命は地球より重い」とぬかしたので有名な事件。
パリ(シャルル・ド・ゴール空港)始発、アテネ・カイロ・カラチ・ムンバイ・バンコク・香港経由の東京国際空港(羽田)行きの日本航空472便(乗員14人+乗客142名)が、経由地のムンバイを離陸直後、拳銃・手榴弾等で武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。飛行機はインド・カルカッタに向かったが、進路変更でバングラデシュはDhaka(ダッカ)のTejgaon(テジガオン)空港に着陸を強行した。赤軍サイドの要求は以下の通り。
①人質の身代金として600万ドル(当時の為替で16億円程度)。②日本で服役および勾留中の9名の釈放と日本赤軍への参加
これを拒否又は無回答の場合は、人質を順次殺害すると警告し、「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件も付けられた。当時のアメリカ大統領=J. Carterと懇意にしているアメリカ人銀行家が乗客にいた事を犯人グループも知っていた。日本政府は身代金支払い、超法規的措置=収監メンバー釈放引き渡しを決定。(釈放されたメンバーは6人)この背景にアメリカへの外交的配慮もあったとされる。
この事件の影響は非常に大きかった。日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのが、クアラルンプール事件以来2回目となった事で、福田赳夫は引責辞任した。バングラデシュでは10月2日、この事件のどさくさを突いての軍事クーデターが勃発した。クーデター自体は、数時間で鎮圧されて未遂に終わっている。
これでハイジャック機と日本からの救援機はダッカを出発。ダッカで既に人質118人を解放したが、ダッカを発ってクウェイト・シリアを経由してアルジェリアのアルジェに到着した。アルジェリアは当時、国際ゲリラ革命組織の有力支援国だった事が大きな要素らしい。
ジャカルタ日本大使館等手製弾発射事件(ジャカルタ事件)=1986年5月14日
ジャカルタにあるアメリカ大使館・日本大使館にロケット弾が発射され、カナダ大使館前の車が爆破された事件。事件後に世界各地主要都市にある報道機関に「反帝国主義国際旅団」からの犯行声明が届いた。現場検証でロケット弾発射元から日本赤軍メンバー・城崎勉の指紋が採取され、日米捜査当局は日本赤軍の犯行と断定した。犯人の城崎は事件の10年後=1996年にアメリカで拘束された。
ローマ米英大使館爆破事件(ローマ事件)=1987年6月9日
ナポリ米軍施設前車両爆破事件(ナポリ事件)=1988年4月14日
日本赤軍、改めて見ると中々輝かしい戦績?を御持ちの様だが…、次回=Chapter 17へと続く!
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