Dufftown 街角ミュージック

マイナーパワーがこの世を救う。今こそ日本を大和民族の手に取り戻せ!連綿と受け継がれる日本と大和民族を護ろう。 害人天国を~、ブッ壊す!

2022年02月

この企画では、今年2022年に「大きな記念の節目」を迎える人や出来事、物を挙げている。今回Chapter 5では、中老・五十路=50歳・50周年・半世紀を迎えるものをフィーチャーして行く。
この年も色々大きな出来事があった。この国の戦後史の大きなターニングポイントとなる事が幾つもあった。


1972年といえば、何と言っても沖縄返還=沖縄の日本復帰・沖縄県発足=5月15日。これなくしてこの年は語れない。
返還の3日前の5月12日にアメリカの沖縄民政府解散、沖縄統治が終了


今年は復帰50周年という事で、5月15日の記念式典は東京と沖縄で同時開催する事が検討されている。5月14日・15日に沖縄を愛する全ての人達で、本土復帰50周年を祝う為のイベントを県内ライブ会場で開催し、子どもたちが楽しめるスポーツイベントやヒーローショー、ドキュメンタリー映画「結どぅ宝」の発表、更に沖縄出身の大物アーティストによる音楽ライブを企画しているとの事。
沖縄には「結515プロジェクト」というのがある。このプロジェクトは、2022年5月15日の「本土復帰50周年」を迎えるに当たり、1972年生まれの「復帰っ子」世代の有志が集い、「結どぅ宝 =生きているから笑いあえる。生きているから未来がある。」をスローガンに活動している団体らしい。


沖縄県は日本復帰50周年記念事業として記念シンボルマークデザインを募集するのだそうだ。この事について県の公式ウェブから抜粋引用させて頂く。
「沖縄県は令和4年5月15日に本土復帰50周年を迎えます。この意義深い歴史的節目の年を県民とともに記念し、これまでの沖縄の発展のあゆみや将来の可能性を広く発信していくため、県では復帰50周年事業として様々な事業を実施することを予定しています。復帰50周年記念シンボルマークは、沖縄が復帰後歩んできた道のりを証明するシンボルであり、復帰50周年記念事業のプロモーションの中心に来るものです。ついては、より多くの県民の皆様とともに国内外に50周年を発信していくため、シンボルマークデザインを以下のとおり募集します。」

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50度オーヴァーの泡盛も最近は入手困難で、高いorz…

日本が主権を回復して、独立国家に戻ったのは1952年の所謂サンフランシスコ平和条約発効だとされる。そこから沖縄返還=1972年までは20年掛かっているが、これって不思議だと思わないか?主権を回復する時点で元々日本の領土だった沖縄も返還されて然るべきではないか?
沖縄を支配したのはソ連ではない、同盟国になったアメリカである。沖縄については、南樺太や千島列島とは違い、Franklin D. Roosevelt(フランクリン・ルーズベルト)とIosif V. Stalin(有田芳生、ヨシフ・スターリン)との間に密約は無かった筈である。


戦後になって、欧米諸国は国共内戦で寄ってたかって狂惨党を勝たせた。これで中禍人民凶和国が成立。しかも喜多長賤こと超賤民主主義人民共和国も成立。ソ連+厨獄+喜多超賤が繋がり、東西冷戦の火蓋が切って落とされて、赤化の流れがアジアにも広がろうとしていた。1950年代には朝鮮戦争が起きて、超賤半島は南北に分断されこれが固定化した。
日本は東西冷戦における西側=自由主義陣営のフロントラインとして重要になって行った。アメリカの安全保障世界戦略に於いて、日本殊に沖縄は欠かせない存在になったのは事実。そういう背景が沖縄日本復帰に20年も掛かった大きな要因の一つと思われる。


第2次世界大戦において枢軸国の主要な存在だった、日本・ドイツ・イタリアは揃って西側陣営のフロントラインにされている。日本はアジアでソ連+厨獄+喜多超賤と対峙し、戦前は日本領だった超賤半島は南北分断で冷戦のフロントラインそのものになり、70年以上経った今でも続いている。ドイツは東西分断を喰らってヨーロッパにおける冷戦のフロントラインそのものになった。イタリアも隣はユーゴスラヴィアだった。更にその東にはハンガリー、ブルガリア、ルーマニアといった共産主義陣営が控えていた。

返還50周年の今、沖縄が新冷戦米中対立の中で、台湾と並んで極めて重要な場所としてクローズアップされている。日本のみならずアメリカ更に自由主義陣営にとってもシーレーンの最重要地点として守り抜かなければならないのが、今の沖縄である。
沖縄の野党議員には、「沖縄は独立すべし」「独立したら中国との関係強化で潤う」なんてぬかす御花畑のバカがいる様だが、お願いだからそんな奴等には即刻タヒんでもらいたい。そんなクソどもは全員死ね!


1972年の話は長くなるかも知れない、という訳でChapter 6へと続く!



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交通系IC乗車券というと、以前は都市部の割とメジャーな交通機関でしか使えないというイメージがあった。でもこれが近年は、地方のローカル私鉄やバス会社でも導入の動きが出て来ている。今や北は北海道から南は九州まで288社局で利用可能という広がりである。

ここで、IC乗車券の歴史を極々簡単に述べると、先ず1996年に汎用電子乗車券技術研究組合なるものが設立された。ここから、ICカードを使用した汎用電子乗車券の開発プロジェクトが官民一体となって行われ、政府と民間鉄道事業者、更には関連の機器メーカーなどにより共同研究が行われた。
その後、2000年3月に日本鉄道サイバネティクス協議会によるICカードを利用した乗車券の規格として、「サイバネ規格」=SONYが開発した非接触型ICカードシステム・FeliCa(フェリカ)を採用したもの、が定められ、その後、各地の交通事業者でICカードの導入が進んだ。


地方では、先ず独自の「ガラパゴスな」IC乗車券システムが導入されて、その後交通系ICカード全国相互利用サービスを構成する10種のカードSuicaICOCATOICASUGOCAKitacaPASMOPiTaPamanacanimocaはやかけん)による片利用が可能になるというケースもある。(LuLuCaIruCaらくでんカードHareca、その他がこのケースに当る)

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秩父鉄道6000系・6003F=2015年1月・小前田付近で撮影

秩父鉄道はこの度、PASMOサービスを3月12日より導入すると、1月27日付でアナウンスした。当然、あの10種類も使える様になる。このサービス開始で、駅には細長い棒状の簡易型IC乗車券改札機を導入する様だ。更にこれに伴い、羽生・熊谷・武川・ふかや花園・寄居・長瀞・秩父・御花畑・影森・三峰口以外の駅では3月11日を以て窓口営業を終了、今後は係員が定期的に見回りを行う形になるという。
ここから見えて来る事として、今度のIC乗車券対応化は、同時に打ち出された27駅での窓口営業廃止にガチャコーン!と接続するのである。


これで関東では東京都、神奈川県に次いで埼玉県内の全ての鉄道路線も交通系ICカード乗車券に対応する事になる。これが近畿の場合は意外かも知れないが、大阪府のみである。(奈良県は近鉄生駒鋼索線が未対応。兵庫県、京都府も一部事業者が未対応)

21世紀になって20年以上が経った現在、IC乗車券は豊橋鉄道水間鉄道(←グルメ杵屋の子会社)、熊本電鉄高松琴平電気鉄道(ことでん)四日市あすなろう鉄道富山地方鉄道でさえ(失礼)導入されている。関東鉄道と千葉モノレールではSuica及びPASMOのみに対応というやや変則的な形である。
関東とその隣接地域で対応していないのは、流鉄いすみ鉄道上信電鉄上毛電鉄ひたちなか海浜鉄道鹿島臨海鉄道といった辺りか。その他地方でも未導入の鉄道は、岳南電車三岐鉄道和歌山電鐵えちぜん鉄道福井鉄道北陸鉄道という所。
浜松市の遠州鉄道では「我が道を行くガラパゴス形」IC乗車券=nice pass(ナイスパス)が導入されている。


それから伊豆箱根鉄道でも大雄山線はIC対応なのに、駿豆線は未導入。伊豆箱根鉄道西武グループなのに全体での導入になっていないというこの中途半端は何なのか?
一畑電車、小湊鉄道近江鉄道はバスだけで導入し、鉄道では未導入というコイツも摩訶不思議。ただこの3社の場合、最早殆どバス会社と化しているのでバスだけで導入しておけば事足りるという話なのであろうか?


今や「息をする様に」当たり前に利用される交通系ICカード全国相互利用サービスは2013年スタートなので来年で10年である。このカードの始祖になるSuicaは2001年11月18日デビューなので、去年で20年=成人式であった。嘗て一世を風靡した?スルッとKANSAI・イオカード、Jスルーカード・パスネット・ワイワイカード・SFパノラマカードといった磁気式プリペイドカード乗車券も隔世の感がある。


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兵庫県の蒸留所の内、前記事で触れていない所が一箇所ある。京都・伏見の大手、黄桜酒造が2018年に立ち上げた丹波蒸留所である。丹波の名の通り丹波篠山市の山間、標高300mに位置している。
焼酎用から流用したステンレス製スティルが先に稼働し、ジンやモルトウイスキーの蒸留を開始。2021年11月に漸くモルトウイスキー用にForsyth(フォーサイス)社製スティル・1対(初溜+再溜)を稼働させた。2022年にはこの丹波の原酒を使ったウィスキーがデビューするが、2024年末まではステンレス製スティルで蒸留された原酒が専ら使われる事となる。


ウィスキーに先行して2021年5月デビューしたのがクラフトジンの「花物語」。風味を決めるボタニカルだが、杜松(ジュニパーベリー)以外では、黄桜=ウコンザクラを始めに宇治抹茶柚子・山椒等を使用し日本・京都テイストをアピールする内容らしい。度数は47度で700mlボトル、化粧箱無しなら3900円程度。


さて、阪神地域唯一の蒸留所である六甲山蒸留所についてだが、これを運営するのは徳島のAXAS(アクサス)という会社。

AXASという名は一般にあまり馴染みがないかも知れない。だが、洋酒ファンには一定の知名度がある筈である。この会社の裏ラベルが付いたウィスキーその他各種酒類のボトルは量販店や専門店で結構見かけるからである。以前、「セルバ徳島支店」という記載の裏ラベルが付いた酒類を見た事がある筈である。AXASの酒販部門は2007年にこのセルバを吸収合併している。

同社は徳島市に本拠を置き、2006年創業と若い会社。ドラッグストア(Charley)、リカーショップ(Our Liqour)、インテリアショップ(PLAZA ALEX・ALEX COMFORT)、文房具専門店(文具館Charley)、スポーツ用品店(アレックススポーツ)その他諸々を展開する。この親会社(持株会社)=AXAS HDはJASDAQ上場企業である。

同社は更に阪神間では「元町WHISKY」・「芦屋WHISKY」というウィスキー専門ショップ2店舗を展開、東京では「青山WHISKY」というオーセンティックバーを開店している。青山のバーではホグスヘッド(hogshead)からヴァリンチ(valinch)と呼ばれる銅の長いスポイトで吸い上げ、そのままウイスキーを提供するという新しい飲み方を提案しているのだそうだ。
(ヴァリンチ(valinch)なんて蒸留所でハンドフィルのボトルを作る時に使うものというイメージだろうが…)


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神戸ポートタワーから六甲山方向=北方向を望む。

六甲山中に蒸留所を作るといっても、そこは瀬戸内海国立公園内なので、新たに大きな建物は建てられないし、使える物件探しも非常に苦労した。構想から8年を経て、最終的に或る製薬会社の古い小規模な保養所だった建物を買い取って蒸留所に改装したのが六甲山蒸留所である。誰が見ても蒸留所とは思えない外見の建物は3階建てではあるが、如何せん蒸留所として使うには小さいし色々制限があった。

肝心のスティルに関しては日本のメーカーに発注しようとしたが、スペースが小さ過ぎると悉く断られた。結局はドイツのArnold Holstein(A. ホルスタイン)社が漸く応じてくれたという。因みに同社は4世代続く蒸留機メーカーで、30 数名のハンドクラフト職人を擁している。各種ブランデー、ウイスキー、ジン、ウォッカ等の為の各種専用機に加え、ハーブ抽出蒸留機や複数蒸留酒対応のハイブリッドタイプ蒸留機も製作しているという。

建物に入れられる蒸留器は1500ℓのサイズ(極小)で1基入れるのが精一杯という訳で、この1基で初溜も再溜も行う事になる。モルトミルなんて持てないから麦芽は挽いてグリストの状態で納入してもらう。(麦芽は日本のビール会社が輸入、フェノール値=50ppm)
蒸留を開始したのが2021年7月の事、仕込は現在は週1回しか出来ない模様。ワンバッチで麦芽300㎏使用して1500ℓの麦汁を作る。それを発酵させウォッシュにするが、ウォッシュバックは2基あるので一度に2バッチ分行うらしい。こうしてできた1500ℓ弱のウォッシュから初溜1回で500ℓのローワインを得る。これを2バッチ分行い合計1000ℓのローワインから、1回の再溜を行うという仕組みになっている。1回で得られるスピリッツは1回で300ℓ弱程度と推察される。


AXASのCEOである久岡卓司氏自身が蒸留所建設の音頭取りをした。ウィスキー製造の陣頭指揮も久岡氏が執っている。蒸留所見学も毎週日曜日、1回10名×4回という形で行っている。実は観光客受け入れが蒸留所開設の許可条件に入っているかららしい。
CEO久岡氏の道楽なのか、将又ウイスキーと観光を通じてAXASの宣伝になれば良いという事か?これをステップにして将来は地元徳島にも蒸留所をオープンするという展開になっても面白いとは思う。六甲山蒸留所単独ではどう考えても商売にはならない。


阪神地域に新しく蒸留所を作るとするなら、国立公園は避けて、土地や水も確保出来て、色々な規制も少ない所を狙うしかなかろう。そうなると、六甲の麓まで住宅地が開発されている六甲の南側は極めて難しいと言わざるを得ない。そこでワンチャンあるなら福知山線方面という事になるのか。宝塚市なら武田尾の様に市街からやや外れたエリア、西宮市なら名塩あたり、神戸市なら道場あたりに可能性があるかも知れない。
あの辺のエリアにも限界ニュータウン(マチュピチュ候補)が点在している様なので、チャッチャとぶっ潰して蒸留所でも作った方がマシではないかと思うのは小生だけだろうか?。


Part 15へと続く!


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このシリーズ、西北どころか西宮、延いては阪神地域までも完全に飛び出して、「兵庫県を応援しませう」というノリになっているが、これは今に始まった事ではないし、改めて何卒御容赦願いたい。

ところで、六甲山蒸留所を御存知だろうか?
これは、現在阪神地域に存在する唯一のウイスキー蒸留所で、規模も日本国内最小の筈である(あの長濱より小さい)。兵庫県下でもウイスキーの蒸留所は江井ヶ嶋海峡(共に明石市)、更には黄桜酒造が運営する丹波蒸留所、今日現在で合計3ヶ所である。
酒造りで有名な灘や西宮市街にクラフト蒸留所が1ヵ所かそこらあってもおかしくない様に思うのだが、作られるとかいう話すらない。蒸留所を作るにも用地確保を始めとして、環境面を含めた各種規制をクリアするのは困難で、地方や郊外に集中する


アイルランド首都のダブリンにも嘗ては沢山のウイスキーディスティラリーが市内にあったが、アイリッシュウイスキーの低迷が数十年と長く続いた事もあって、殆どが消えてしまった。アイリッシュが盛り返して来た21世紀、今も数か所のディスティラリーが市内やその周辺で操業している。そこは嘗ての「ウィスキー中心地」という意地を見せているか?日本でも都市部市街地の蒸留所という物がもっとあって良いと思う。

蒸留所を作っても、固定費は重いが、蒸留してもウイスキーとして出荷するのに最低3年は掛かり、その間は換金が出来ない。ウイスキーと並行して細々とジンその他のスピリッツやリキュール等をリリースして日銭を稼がなければならないが、蒸留所の規模が小さいとそれも難しい。ジャパニーズウイスキーの蒸留所を名乗るも、スコットランド等から輸入した原酒を使って「ワールドウイスキー」みたいな物をリリースして資金稼ぎをしている所も多い。

仕込水の確保も大きな問題になる。ウイスキー製造は非常に沢山の水を消費してしまう。糖化・発酵は勿論、蒸留時の冷却、製品出荷時の度数調整といったプロセスで大量の水が要る。水という部分もディスティラリーを建てるにはネックになり易い。

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神戸ポートタワーから明石方面=西方向を臨む

阪神地域からやや外れるが、明石市では江井ヶ嶋蒸留所が有名。同社は卜部兵吉が1888年に設立。2007年に同社初のシングルモルト=ホワイトオークあかし8年をリリース、近年のウイスキーブームも追い風にして世界の愛好家から大注目を集める存在に躍り出る。2020年には「江井ヶ嶋」という新シリーズを立ち上げ、6種類のボトルをリリースしている。
蔵は1889年に操業し、日本酒醸造から始まった。実を言うと日本酒の一升瓶はここが始祖。1919年には焼酎やウイスキーの製造も開始。1963年には山梨のワイナリーをオープンし、「シャルマンワイン」を世に送り出す。
江井ヶ嶋酒造のウイスキー作りは年3ヵ月程だったが、近年のウィスキーブームで仕込みに使う日数も増やして、日本酒造りが忙しい時期以外(年9ヶ月程)は行う様になった。しかも日本酒の杜氏がウィスキーの仕込みも行う。オークの新樽を水酛仕込(生酛に近いやり方)の純米酒で1年半程シーズニングしてからウヰスキー熟成に使うという、本来が日本酒の蔵らしい?試みも行っている。
現在のウイスキー蒸留設備は1984年に建てられた。奈良のシルバーウイスキー蒸留所のポットスティルを譲り受け更にこれを改造し本格的にウイスキー製造に踏み出した。2019年にはポットスティルが新調されてた。現在、明石の本社敷地内には7か所の蔵が建つ。これ等にプラスして2020年にウィスキー熟成庫が1棟追加され、糖化槽・発酵槽も新調されている。
明石市でも同社がある辺りは江戸時代には「灘」と呼ばれていたらしい。神戸の「灘」が有名になったのでこちらの灘は「西灘」と呼ばれる様になったとの事。


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神戸で食べた所謂「明石焼き」

同市では2017年創業の明石酒類醸造株式会社の海峡蒸留所もある。蒸留所を含む現在の会社敷地は経営者の米澤家本家があった場所で、国道2号沿いでJR朝霧駅山陽電鉄大蔵谷駅のほぼ中間地点である。日本酒蔵と蒸留所が同じ敷地に所在し、直売所「酒笑本館(しゅまいるほんかん)」もある。更に将来は蒸留所のビジターセンターも作る予定である。

同社の創業は1856年、そこから日本酒・みりん・焼酎・ニュートラルスピリッツの製造を行っていた。そして、国内の消費が低迷を続ける中、2005年に海外輸出に活路を見出すべく方針転換。英国のインポーターの眼に止まったのが、同社の日本酒「明石鯛」だった。以降この酒はイギリス各地の高級ホテル・レストランでオンリストされている。
こうしてイギリス・そしてヨーロッパとの繋がりを得た同社はウィスキー蒸留に手を染める事になる。上述のインポーターがオランダのMarussia Beverages(マルシア・ビヴァレッジ)傘下に入り、同傘下でSkye(スカイ島)にあるTorabhaig(トラベイグ)蒸留所とは一種の姉妹関係を結んで、ウィスキー造りの研修も受けられた。
2017年にForsyth(フォーサイス)社製のスティル1基で先ずは蒸留を開始。このスティルはドイツの会社が発注していたのがキャンセルされて明石に回って来た。こういう幸運でも無いとスティル1基手に入れるのも非常に困難で、発注出来ても数年単位で待たされるのはザラ。2019年になって2基目が入って漸く初溜+再溜=2基1対の体制で蒸留出来る様になった。

蒸留所のスタートから5年近くが経つがウイスキー「波門崎」(HATOZAKI)は日本国内未発売で、クラフトジン「135°EAST」だけが入手可能である。



酒類販売業者でアミューズメント事業等も手掛ける、株式会社ウィズワン(大阪市=創立は2000年)は、兵庫県北部、豊岡と朝来の間にある養父(やぶ)市にウイスキー蒸留所を新設すると、去年秋にアナウンスした。養父市は清流のまちをウリにしている所で、天滝渓谷ミズバショウ公園樽見の大桜といった景勝地や数箇所のスキー場もある。
蒸留所は2022年秋の完成を目指し、シングルモルトなど月間2万本を製造する見込みだという。ウィズワンは「ゲームワン」、「リカーショップONE」、「酒の和」、「カラオケZERO」といった店舗チェーンも展開している。


本丸になる六甲山蒸留所についての話は、次回Part 14へとキャリーオーバー!



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西北とかいう…」のネタ、約3ヶ月振りと随分開いた形になる。その間に打ち切りも考えなかったわけでは無かったが、中途半端に打ち切るのはプライドが許さない部分もあったので、何とかネタを見付けて続行し、完遂したいという事で再開する。

さて、今回Part 12の話だが…、JR東海道本線阪急今津線(南)が跨いでいる所、そこはJR西宮駅の600m程東側で阪急の阪神国道駅に隣接する場所。阪急今津線国道2号名神高速道路東海道本線が4辺になって囲んでいる大きな敷地がある。ここには建物解体から約8年が経った今も大きな更地で残っている部分があって、今津線の期間限定の撮影地になっているらしい。この場所は住所でいうと西宮市津門大塚町になる。この巨大な敷地には嘗てアサヒビール株式会社の西宮工場が存在していた。同工場はアサヒスーパードライやクリアアサヒを含む6品目を生産し、2010年生産量は大瓶換算で約23,200,000ケースだった。

このアサヒビール工場跡地は如何せん、約185000㎡というあまりにも大きな場所である。跡地利用としてエルガーノ西宮=高齢者用集合住宅、レクサス・スズキ・スバル各社のディーラー・ロイヤルホームセンター西宮中央店が建っているが、それでも未開発の大きな区画がまだ残っている。
この敷地の中でも、R2阪急今津線に面したパーセルの大きな空き地再開発として、兵庫県・西宮市が連携して県立西宮病院と西宮市立中央病院を統合再編して新たな県立病院を建設するプロジェクトが動き出している。
新しい病院は10階建・延べ床面積約54300㎡・病床数552床というスペックで、阪神地区の中核病院として再生医療・ゲノム医療の分野における臨床研究・治療を実施するなど先進医療への対応を図るらしい。2022年度に建設工事を開始。2025年度中の開院を目指すとの事。病院建設に充てられる土地は26000㎡程らしく、跡地全体の14%程の面積で、未だ未開発でかなりの土地が残ってしまう可能性は高い。興行用アリーナ兼体育館の構想もあったが、こちらは撤回されている。


1927年10月~2012年8月22日まで約85年間に渡って操業したアサヒの工場だが、直ぐ近くにある子会社工場に設備を譲り渡す結果になったのである。
名神高速道路より東側の津門飯田町にはニッカウヰスキー西宮工場がまだ操業中。(こちらも2024年に操業終了か?)1959年創業の西宮工場、元々はウイスキーを製造していたが、2001年アサヒビールの完全子会社となった後は、アサヒビールが料飲店向けに販売する「樽ハイ倶楽部」の生産を行っている。すぐ近所のアサヒビール工場閉鎖で譲り受けた生産設備で酎ハイの自社生産へと移行した。


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左画像=スーパーニッカ・特級時代、右画像=ニッカ傘下のBen Nevis(ベン・ネヴィス)、古い超レアボトル

西宮というと灘五郷という様に日本酒の伝統があり、ウイスキーとか洋酒のイメージは無いだろう。しかし、ニッカウヰスキーの創業者でジャパニーズウイスキー開祖の一人である竹鶴政孝氏甲東園にあった芝川家の果樹園は深い縁があったという

芝川家6代目当主・芝川又四郎は、ニッカ創業者・竹鶴政孝氏がイギリスから帰国後に住んだ大阪・帝塚山の居宅の大家であった。この家は英国人リタのために洋式トイレを備えたアメリカ風の洋館であった。しかもリタはその家で芝川又四郎の娘達に英会話を教えていたらしい。

この事が縁で後年、竹鶴氏大日本果汁ニッカウヰスキー前身)を設立するにあたり、芝川氏は資金提供する事になる。この芝川家の別邸・果樹園が西宮市は上甲東園一帯にあった。甲東園駅~関学大までの道路は、元々、芝川氏自身の果樹園のために作った道路で、関学大も果樹園の一部だった。
加賀正太郎・芝川又四郎・柳沢保恵の3名はニッカの主な出資者になる。加賀・芝川の両者は本拠を大阪に持っていたが、別荘を須磨の海岸沿いに隣り合って構えていた。


竹鶴氏と加賀氏には深い関係が出来ていた。1923年、竹鶴政孝は鳥井信次郎に招聘され寿屋に入社、山崎蒸留所建設とウイスキー製造に携わっていた。その当時に山崎に別荘を構えていのが加賀正太郎氏だった。加賀氏も一橋大卒業後、イギリスを始めとしたヨーロッパでの留学経験が豊富で、イギリス等から持ち帰ったモダンな生活様式を日本に定着させようとしたらしい。
この天王山山麓に建てられた加賀家別荘=大山崎山荘は、現在の「アサヒビール大山崎山荘美術館」になっている。サントリーの聖地である大山崎に、アサヒビールの美術館なんて存在するのはこんな繋がりがあっての事である。この美術館はサントリーの蒸留所から約600m東に行った所に所在している。


ニッカは21世紀にアサヒビールの子会社となったが、上述の通り、ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝氏は一時期、サントリーの前身=寿屋に勤務して山崎蒸留所立ち上げにも大きく関与している。余談だが、サントリーの「トリー」は鳥居信次郎から取られている。

ニッカというと余市や宮城のイメージが強く、西宮とはあまり結びつかないかも知れないが、ニッカと西宮は非常に深い繋がりがあった。今はウイスキーこそ作ってはいないが、西宮北口の南隣に当る阪神国道が最寄駅という西宮工場が今も操業中というのは偶然ではあるまい。ただ、ニッカ・西宮両者の繋がりや絆を示す存在も数年内に消えてしまう可能性は高い。都市部で酒造工場を運営するのは非常に厳しいものがあるのは間違いない。

阪急なのに阪神国道って何でや?と思われるかも知れないが、阪神間を結ぶメインの国道が国道2号線で別名が第1阪神国道である。(他には43号171号阪神国道駅の出入口はこの国道2号線に直結している。

次回=Part13へと続く!



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