Dufftown 街角ミュージック

穏健主義の波とマイナーパワーがこの世を救う。 Make 大和民族 Great Again! 今こそ日本を大和民族の手に!連綿と受け継がれる日本と大和民族を護ろう

2020年09月

今年6月にテイスティングしたワインの話になるが、今回フィーチャーするのはPaitin(パイティン)として知られる作り手、Pasquero-Elia (パスクエロ・エリア)ともいう。本拠を構えるのはBarbaresco (バルバレスコ)でもNeive(ネイヴェ)区域、その南側にあるSerraboella(セッラボエラ)という所。地質が緻密で力強いワインが作れる。

この蔵は19世紀末からワインの醸造に加えて元詰を行い、当時当主だったGiuseppe Elia (ジュゼッペ・エリア)が1893年、Barbaresco del Bricco di Neive(バルバレスコ・デル・ブリッコ・ディ・ネイヴェ)という名のワインをデビューさせた。この時代はBarbaresco黎明期というべき時代だった。
その後1938年に休止の憂き目にあうが、10年後に再興される。
1965年にSecondo Pasquero-Elia (セコンド・パスクエロ・エリア)が設備を一新・葡萄樹の植え替えも行い、今の形のカンティーナを設立した。それから50年以上経った今も、Secondo の息子2人=Giovanni(ジオヴァンニ)とSilvano(シルヴァノ)がワインを作っている。現在は17ha程度の畑を持ち、Barbaresco以外にも、Dolcetto d'Alba、Langhe、Barbera d'Alba、Roero Arneis、Nebbiolo d'Alba 等を作っている


Barbaresco の場合、1.4ha前後の畑から収穫された葡萄はプレスと同時に除梗され、発酵はステンレスタンクで行われる。マセラシオンは4~6週間、26~28℃で行われる。Nebbiolo(ネビオーロ)種のブドウについてはすべて手作業で行われる。
熟成にはトーストされていないスラヴォニアンオーク・オーストリアンオークの大樽(30hl~50hl)が使われ、24ヶ月の樽熟が施される。その後瓶詰前にステンレスタンク内で2ヶ月休ませる。


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ワインのインプレッションに移る。
先ずカラーだが、全体がガーネット、深度が思ったよりある。エッジにレンガ色は入っていない。
酒質は固い、開きだすのに時間がかかった。そしてコイツの手強さを体感する事に…
最初大人しいのかと思ったら大間違い。時間経過と共に酸が貫きながら強烈に主張する展開に。続いて中々強固なタンニンも出て来る。でも、これがNebbioloという葡萄が本来持つ姿の一つの側面という事なのだろう。


拾い出したエレメンツを挙げて行くと
1段目のレイヤーとしては土、リコリス煎ったカカオ、刻み煙草、昔のFernet系リキュール
続いてのレイヤーはビターチョコプルーンブラックチェリー、ブラックベリーラズベリー古いバルサミコ酢キナリキュール葉巻
更には黒文字、白檀、その後の展開で薔薇、アフターの中から上質なニルギリティー…大体そんな所だろうか




アフターはまだまだタイトな所がある。酸とタンニンで引き締まってはいるが、その間隙を縫って出て来るものは更なるアフターの伸びを予測させる。その後は予測通り、ジンジンと迫り来る様なフィニッシュで長いアフターが演出された。

採点結果だが、18~18.5 / 20といった所だが、あくまでもテイスティングした今年6月時点の話。あと3~5年待てればもっと高い点を付けた可能性は充分ある。



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静岡県の川勝平太とかいう知事、アレはダメである。隣の県では知事のリコールという話が動き出しているが、本当は静岡県知事こそ先にリコールされるべきではないかと思われる。
この川勝とかいう知事の反日っぷりは相当凄いらしい。


この男は本来が経済学者なのだが、その経歴を辿ると大阪府生まれで育ちは京都市。洛星高校から早稲田大学、修士号取得後に渡英しオクスフォード大で博士号取得。その後は早稲田大の講師→准教授→教授となり98年に国際日本文化研究センター教授に就任。
2007年4月、当時県知事だった石川喜延の片腕的存在だった事で静岡文化芸術大学学長となる。そして2009年6月に民主・社民・国民新党の推薦で知事選に立候補を表明、7月の選挙では自公推薦候補を僅差の闘いながら破って県知事となる。
それは「鳩山イチロー記念サンバカーニバル」とも云うべき第45回衆院選直前の事であった。民主・社民の推薦でという辺りが時代を感じさせると共にこの辺だけで嫌なニオイがプンプンである。
これ以外にも、21世紀日本の構想懇談会=小渕内閣、美しい国作り企画会議・教育再生会議=第1次安倍内閣、国土審議会他幾つもの公職にも就いている。


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この川勝という輩、何といっても有名なのはJR 東海にイチャモン付けまくって、リニア新幹線を頓挫させようとしている事だろう。
2017年9月、リニア新幹線の南アルプストンネル静岡工区8.9㎞について協定文書作成寸前で反対に転じる。「大井川源流部地下にトンネルを作ると大井川の水量が減り、環境が悪化しかねない。」というのがその理由。
ところが実はこの男、知事就任以前は国土審議会の委員でその時はリニア新幹線推進の立場を取っていた。


その翌月、「この工事で地域にメリットがあるかについて基本的な考えのないまま勝手にトンネルを掘ろな」と言い出した。要はあからさまな見返りを求めたのである。
これに留まらず、ここから手を変え品を変えJR 東海を愚弄して行くのである。


リニアについてJR 東海の中でも山田佳臣(第4代社長・現相談役)あたりからは「ペイ出来ない」等と異論は出ていた。そして現在、反日知事が出て来て一種の騙し討ちをして延々と妨害工作をする事態になっているが、その可能性を早々と予測して異論を唱えたというのならそれは見事過ぎる予知能力という事になる。

この先は其の弐へとキャリーオーバーする



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先日、チェコ共和国のミロシュ・ヴィストルチル(Milos Vystrcil)上院(元老院)議長が世界の注目を集める演説を台湾立法府内で行った。その名言がコレ
「我是台湾人」=私は台湾人だ
これだけ聞くと、何言うてんの?チェコ人やろ自分!と言うかも知れないが、このオリジナルはJFケネディが1963年西ベルリンで行った演説 " Ich Bin Berliner "
(実際のステイトメントではEin Berliner だが、これはJFK の言い間違いで、正確にはEin は付かない)である。
このエピソードに触れた上でこのカヴァーヴァージョンになる様な発言が飛び出した。


彼のスピーチの概要は以下の通りである。
まずは立法院から立法院国会外交栄誉奨章一等奨章の記念章を頂いたことに感謝したい。台湾の立法機関の頂点にある立法院で発言する機会を得たことは大変光栄であり、心から感謝したい。(中 略)
私は、すべての民主主義者は民主主義の原則を守り、民主主義を作り出す人々を支持する義務があると固く信じている。このため、国会外交の代表として台湾を訪れ、その経験を交換し、互いに支持し、協力の範囲を拡大することができたことを大変光栄に思う。
1963年、当時アメリカの大統領だったJ.Fケネディ氏は西ベルリンで演説した際、共産主義と政権による圧迫を強く非難した上で、ドイツ語で「私はベルリン市民だ」と述べ、ベルリン市民と自由という最高の価値に対する支持を表明した。
私も同様の方法で台湾の人々に対する支持を表明し、立法院での講演を締めくくることをお許しいただきたい。「我是台湾人(=私は台湾人です)」


チェコと台湾には国交がない。チェコでも大統領以下一部の政治家等は親中である。それでも議会の長が政財界の関係者を伴って訪台団として台湾に行ったわけだが、訪台を強く望んでいたのはヴィストルチル議長の前任者=ヤロスラフ・クベラ(Jaroslav Kubera)氏であった。2019年時点で、チェコ特にプラハ市長や多くの政治家達は中共と距離を置く姿勢を明確にしていた模様で、プラハは北京との姉妹都市関係を解消し、台北との姉妹都市関係を締結した。
クベラ前議長が訪台を今年2月に予定している事が分かると、中共の駐チェコ大使(張建敏)が「訪台すれば中国市場に依存しているチェコ企業に大きな損失が出る」という戦狼外交そのものみたいな書簡を送っていた。それ以前にも親中のゼマン大統領を通じてクベラ議長の訪台を止めさせるべく圧力をかけていた
中国大使館の晩餐会に出席したのが1月17日、その3日後にクベラ前議長は急死。17日の時点で心臓に症状が出ていて、遺した言葉が「中国大使館が用意した食事や飲み物を絶対食べない様に」というものだった。
コレ、単なる病死と考えるのは少々無理がある。


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さて、李登輝の話になるが
1999年、総統だった彼が後継=2000年総統選・国民党の候補者として指名したのは宋楚瑜ではなく連戦だった。
当時、有力とみられていたのは宋楚瑜、彼は李登輝を総統に押し上げた影の立役者の一人。台湾省の首長だったが、人気は絶大。ジャージ姿に野球帽という「蔣経国スタイル」で地方遊説するので有名だった。ところが台湾省は1998年12月20日で省としての機能が凍結されていた。宋楚瑜は梯子を外された格好になって李登輝とも袂を別って無所属で総統選に立候補した。
これで国民党支持層は分裂を強いられ、本人の金銭スキャンダルが1999年末に報じられるに至り、2000年の総統選は僅差ながら民主進歩党の陳水扁の勝利となり、国民党は遂に政権の座から滑り落ちた。国民党候補者だった連戦は、陳水扁どころか無所属の宋楚瑜にも及ばずとんだ赤っ恥をかいたのである。
コレ、李登輝の書いた台本通りだったと言われている。


斯くして、国民党政権をブッ壊す事に成功した李登輝だが、来日が何度も阻まれていたのは有名な話である。70~90年代までは台湾政府の幹部であり、日本と台湾は国交がなく中共の反対もあって実現しなかった。2000年時点で200万人の人の往来がある日台間でありながら、22歳まで日本人で夫婦の会話も日本語という彼が日本の地を踏めないというのは笑止千万ともいえるが、90年代までは媚中な田中派とその流れを汲む人達の政権が続いていた事も大いに関係していると思われる
2001年、総統退任後に心臓治療の為に来日が叶ったが、そこにあったのは当時首相だった森喜朗=清和会の英断でビザが降りたからである。その際も、外務省の厄人(アジア太平洋局長)が大ウソをついてまで来日を阻止しようとしていたのである。


其の八に続く!



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日本の「犬」は台湾に何を齎したのか?大陸の「豚」は何をやらかしたのか?
犬は番犬として守ってくれるし、忠誠心もある。それに対して豚はただ食い散らかすだけという意味。という訳で李登輝の話も6回目。


清朝傘下の時代は化外の地とも呼ばれた台湾だが、日本統治下の50年間で、インフラ整備・教育の整備・公衆衛生や医療も整備されて(後藤新平の貢献)民度が上がった。ババ抜きのババだった筈が、当時の世界でも有数の豊かな場所へと変貌を遂げたのである。
阿片の追放、漸禁政策で50年掛けて気長に根絶したのである。阿片は専売制として・使用吸引は許可制として同時に高い税金を課し、税金の挙がった分は阿片根絶の対策費に回すというものだった。
更に脆弱な国土を穀倉地帯に変えた。台南の烏山頭ダムは建設当時アジア最大でそれから100年経った未だに現役である。また現地には技師としてこのダム建設の中心人物だった八田與一夫妻を偲ぶモニュメントが今でも存在しているという。しかもこの碑は蒋介石時代に壊さる事を恐れて一旦隠されたが、李登輝政権下で戻されたらしい。

日本が作った総督府建物は総統府として現役、1999年の大地震を経験したがビクともせずだった。100年前の時点でエレヴェータ4基を備えていたこの建物だが、その当時の4基で1基がまだ稼働しているのである。
人工の10%が日本語を話せるという事だが、1990年以降必須になった高校の第2外国語で最も選択されているのが日本語である。30代以下の人間で日本語を話せる人間が多くなっているのも全く不思議な事では無い。
日本の台湾支配は植民地支配の形としては世界でも類を見ないものである。植民地支配というと専ら収奪して食い散らかすだけというのが相場だからだ。
COVID-19対策で上手く行ったのもこれが大きく貢献していると考えられる。公衆衛生の基礎がしっかりしていたのは日本統治下の政策が功を奏した形となった。


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小生の様なアラフィフ又はそれ以上だと、若い時分には台湾というと何処か野蛮なイメージも持ったりしていた。それは多分に蒋介石時代のイメージが残っていたからだと思われる。折角民度も文化度も上がった台湾を大陸の豚が乗っ取った上に食い散らかしてズタボロにした。しかも、マフィアと蒋介石がくっ付いて白色テロを続けていった事で、すっかり黒社会になってしまったのである。そしてその時代、3~5万人の知識層が落命した(亡命ではない)とされている。(北超賤となんか似ている)
そういう中で李登輝も「大きな事を成そうとすれば迂回せねばならない」からこそ国民党に入った。直線的に行動しても成果は得られないと悟っていたからこその行動と言える。


戦前の日本の徳育の教育によって「人間として生まれたからには公の為に尽くすという事を徹底的に叩きこまれた」と本人も生前よく述べていた。今でも台湾では「日本精神」(リップンチェイシン)という言葉がある。それは礼儀正しい・約束を守る・時間を守る・勤勉で忠誠心があるという事を示すのだという。

教育の話になると蒋介石が入り込んで行った教育は反日教育だった。日本統治下の時代は暗黒だったと宣伝したのである。ただどう考えても暗黒だったのは蒋介石時代ではないかと思われる。そんな反日教育を止めさせたもの李登輝なのである。歴史を見直し「台湾人の台湾の歴史」を確立したのも彼のの大きな功績であると言える。これが1997年に認識台湾として学校教育に導入され、教育制度の変更を経た現在でも形を変えて引き継がれている。

其の七へと続く!



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「台湾を台湾人の台湾にした」(蔡英文)
「台湾のデモクラシーは李登輝が亡くなっても継続されるだろうが、シンガポールのリ・クアンユーの政治体制は彼が死ぬと同時に墓に葬られるだろう」(Samuel P. Huntington=文明の衝突で有名)
(リ・クアンユは2015年に死んだが、ハンティントンの言った通りにはなっていない)


総統の民選に先立つ事2年、1994年から直轄市と各省の知事がそれまで任命制だったのが公選制に代わった。
こうしたステップを踏み、何と6回の憲法改正を行った上で、総統の座も公選で選ばれる事になった。任期は従前の6年から4年に短縮され、2期8年まで=3選禁止となった。元首公選制を採る国の代表例であるアメリカの大統領選挙に倣ったものとされる。そして1996年、中国の妨害は目に見えていた。一つの中国と寝言を言い続け、武力解放まで常に視野に入れていた中共とすれば、台湾民主化でいよいよ独自の道を進むのは当然我慢がならない。そんな中国の脅しもどこ吹く風と言わんばかりに、初の元首公選を成し遂げた。李登輝は54%の得票率で初の民選総統となったのである


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中国の一部なんかじゃない全く別の独自の存在であるというアイデンティティがあって、大陸に乗っ取られた台湾としての自決権を取り戻したい、という多くの人の強い気持ちが醸成されて李登輝を中心にしてまさにスクラムとなって進んだその結果といっても良いだろう。そして1999年には二国論をブチ上げた。
更に日本語が事実上の母国語という李登輝氏は、日台関係を非常に重要視していた。

国共内戦の後、「犬が去って豚が来た」台湾が中共に飲まれなかった事が不思議に思う人もいるだろう。
そこには日本が深く関わっている。正確に言えば日本人である。蒋介石が旧日本軍の軍人を台湾に呼んだのである。日本兵上がりの軍事顧問団が密航して、台湾兵を率いて金門島等で戦い中共を追い返した。当時は海の上で戦う事にはド素人だった中共は殲滅されるしか無かった。(この密航は当時の政府も承知していたものの、黙認していたらしい)
そんな「国日合作」が出来たのは、「終戦直後沢山の日本人が大陸から無事に帰還出来たのは国民党が手伝ったからだろ」という理屈を蒋介石が持ち出して日本兵達を言いくるめて協力させたからだと考えられる。ただ、東アジアでの共産主義の広がりにストップを掛けるのはアメリカにも日本にもプラスだったのは間違いない。(蒋介石もただものではない)


中共を追い払った台湾の軍隊だが、それはあくまでも国民党軍だった。国民党軍が党と切り離され政府の正式な軍隊になったのは李登輝の下でだった。そんな台湾軍も以前は古い形の兵器しかなかったが、最近では何とM-1 A2 戦車105機、F-16V 戦闘機も66機、MK48形魚雷も16機装備する。大きな変わりようだが、現役のアメリカ軍と装備を合わせている事で、スムースな連携を図るという訳である。

其の六へと続く!


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