今から50年前は、プロレス界でもビッグバンに当る様な事が起きた年だった。言い方を換えると、現代的プロレスの2大源流が誕生した年だったのだろうか?
1972年1月13日、アントニオ猪木こと猪木寛治が新日本プロレスリングK.K.を設立、同年3月6日旗揚げ興行を大田区体育館で挙行。当時のメンバーは、アントニオ猪木、魁勝司、山本小鉄、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳、豊登(条件付き)、Karl Gotch=選手兼ブッカー、レフェリーのユセフ・トルコ(Yusuf Omar)
旗揚げ興行のメインカードは猪木対ゴッチで、ゴッチの勝ちだった。
猪木氏は新日プロを作ったのはクーデター失敗→除名という流れの産物だった。同氏はこの前にも日本プロレスを離脱し東京プロレス(Ⅰ)に転出し、そこからの出戻りを経験している。
新日爆誕劇の始まりは1971年11月だった。ジャイアント馬場・アントニオ猪木両氏が中心となって当時の日本プロレス改革を行おうとしていた。社長の芳の里以下役員達を退陣させるというものだったが、改革を一気に進めようとする猪木と、それを性急だという馬場で意見が対立。それでも11月28日役員会議で、猪木と木村昭政氏が帳簿のインチキさや使途不明金について追求し、猪木は更に木村を経理監査役に迎え入れる事を提案。芳の里はあっさりと社長代行の委任状を木村に手渡し、幹部連中の使い込みはストップさせた。
ただ、この暴走とも言える猪木の行動がBI砲の間の亀裂を生じさせた。猪木と木村以下のブレーンは、猪木社長・木村副社長で日本プロレス経営権を手中に収めようと目論んでいたとされる。これを改革ではなく乗っ取りであると考えた馬場は12月3日に「猪木抜きの」選手会を開き、猪木派の計画を上田とともに暴露。
12月6日、大木金太郎選手会長代行が臨時選手会を招集。猪木の選手会からの除名を提案、議決により猪木は選手会から除名処分になった。猪木除名は13日に事務所で正式に発表された。翌14日猪木サイドも反論の記者会見を行い、馬場・上田を裏切り者として非難。馬場はこれに対し、猪木こそ会社を私物化しようとした裏切り者だと「ゴング」誌のインタビューで語っていた。
去る3月1日には日本武道館にて新日本プロレス創立50周年の「旗揚げ記念日」大会が行われ、試合開始前の17時から主要OBを招いて記念セレモニーが行われた。
まず、半年の入院生活から復帰したリングアナウンサー・田中ケロ(田中秀和)氏がリングに上がり、「2022年3月1日、新日本プロレス旗揚げ50周年記念セレモニー、その時が来た! 50年の歴史を作りし、OB達の入場です!」と叫ぶと、井上亘、獣神サンダー・ライガー、小林邦昭、坂口征二相談役、保永昇男さん、タイガー服部、北沢幹之(魁勝司)、ミラノコレクションAT、田中稔、垣原賢人、山崎一夫、藤原喜明、前田日明、越中詩郎、木村健悟、蝶野正洋、武藤敬司、長州力、藤波辰爾(全員敬称略)といったメンバーが集結。例のアレによる入場制限と行動制限のため、フルキャパ14000人超の武道館に入れた観客は3183人。
創始者アントニオ猪木、初代タイガーマスク佐山聡の両氏は闘病中の為欠席(佐山氏はVTRで出演)、佐々木健介、馳浩(当時石川県知事選挙中)、高田延彦、中西学といった所の姿もなかった。因みに馳浩氏は今日現在第20代石川県知事である。(小生としては総理大臣を目指して頂きたかったが…)
現在、NJPW 50th Anniversaryという特設サイトが開かれている。記念のエキシビション(試合ではなく展覧会)=「シンニチイズム NJPW ism」も東京・名古屋・福岡で行われ好評を博し、7月には広島での開催も決定。
一時期はもうダメかとも思われていたが、奇跡のV字回復を成し遂げて何回目かの黄金時代を謳歌している新日本プロレス。2000年辺りは猪木氏が仕掛けた格闘技路線で自滅して、90年代を牽引した主力レスラーが次々と退団し、そこにプロレスリング・ノアの台頭もあって苦境に立たされまくった時代すら隔世の感がある。
第2代社長で現在相談役の坂口征二氏は旗揚げメンバーではない。旗揚げ時に、坂口のタニマチであった中村産業社長を通じて、1000万円の支度金を提示し新日プロへの参加を要請するがその時坂口は拒否。日本プロレスは猪木に代わる看板として坂口を売り出そうとしていたが、上手く行かず。日プロと新日の合併も大木金太郎が反対しご破算に。
その翌年=1973年に猪木と全く対等の条件という約束で、日本プロレスから木村聖裔(健吾)、小沢正志(キラー・カーン)、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍した。NETテレビは、坂口氏合流を条件にテレビ中継=ワールドプロレスリングを開始。ワールドプロレスリングも来年で50歳という事になる。(肝心のテレビ朝日が来年まで保つかが不安…草叢)
坂口氏合流の背景として、日本プロレスで東京タワーズをG. 馬場と組んでいた坂口、当時の状況からすると全日本プロレス側に行くと思われていた。しかし、全日が鶴田友美(ジャンボ鶴田)獲得に動いていた事で、馬場、鶴田と被ってしまう事を懸念した上に、馬場元子女史とも会わなかった事で新日に行ったのではないかと一説では言われている。アントニオ猪木の強烈すぎるキャラクターに対して、坂口が最高最強の#2であり続けた事が新日の発展を支えていたというのは間違いない。1989年に社長に就任すると猪木時代の借財を8年で返済、約10年の坂口体制下で離脱レスラーはいなかった。
新日が爆誕した後だったが、それまで日プロを中継していた日本テレビの画策で、ジャイアント馬場氏も日プロを離脱→全日本プロレス創立という流れになった。この時、日本テレビは猪木にも交渉を持ち掛けていた事により、「猪木氏を日本テレビに出演させない為に独立した」と馬場氏も後に明言していた。これが全日本プロレス爆誕の背景の一つであろう。
72年7月29日に日本プロレスからの独立を発表、全日本プロレス旗揚げの記者会見は10月16日(ヒルトンホテル)だった。日本テレビと百田家(力道山)のお墨付きを得て21日に旗揚げ前夜を行い(町田市体育館)、22日に旗揚げ興行(日大講堂)を行った。外国人レスラー招聘ルートもガッチリ確保して日プロからの妨害工策も利かない状況で順調に滑り出した。
1972年秋から日本プロレス・国際プロレスに加えて、新日本プロレス・全日本プロレスという4団体時代が73年4月まで約半年続いた。
73年4月に日本プロレスは解散、力道山死去から10年と保たなかった。その後、大木金太郎ら9名の「日本プロレス残党」は「百田家預かり」となって全日本プロレスに合流するが、冷遇を喰らう破目になったのは有名。
80年代中盤まで新日に押されまくっていた「ワルツ」な全日だったが、ジャパンプロレス参戦~天龍革命という中で「明るく楽しく激しいプロレス」を確立し、90年代には「四天王プロレス」等で一大ブームを起こし、まさに全盛期を謳歌した。
だが、1999年1月に馬場氏が61歳で死去、その後は2000年に三沢光晴氏以下大部分のレスラーやスタッフがプロレスリング・ノアに移動。これを以って、日本テレビも全日本プロレス中継を終了し、同局保有の全日本プロレスの株式も手放した。
その後だが、2002年に新日を退団していた武藤敬司を迎え入れて、そこから「武藤体制時代」が約10年続いた。
その後2012年に白石伸生氏の下で全日本プロレスシステムズに移行した。
それから2年、2014年6月には秋山準氏が復帰して社長に座った。同年7月1日、全日本プロレス・イノベーション株式会社と、同社の完全子会社となるオールジャパン・プロレスリング株式会社が発足。
翌2015年12月にはこの両会社の親子関係は解消、興行権がオールジャパンPWに完全移行された。これよりオールジャパン・プロレスリングが中心となり経営を行っていくことになった。
2019年7月になると、福田剛紀氏が社長、秋山準氏はジェネラルマネージャーという体制になった。
その翌2020年になると、「脱秋山」という方針が打ち出され、秋山氏はDDTにレンタルされた後、全日本プロレスを正式退団。2021年3月には選手会長だった諏訪魔(諏訪間幸平氏=当時44歳)が専務執行役員に就任
今年9月18日には50周年記念大会を日本武道館で開催予定。
てなわけで次回=Chapter 28へと続く!
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1972年1月13日、アントニオ猪木こと猪木寛治が新日本プロレスリングK.K.を設立、同年3月6日旗揚げ興行を大田区体育館で挙行。当時のメンバーは、アントニオ猪木、魁勝司、山本小鉄、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳、豊登(条件付き)、Karl Gotch=選手兼ブッカー、レフェリーのユセフ・トルコ(Yusuf Omar)
旗揚げ興行のメインカードは猪木対ゴッチで、ゴッチの勝ちだった。
猪木氏は新日プロを作ったのはクーデター失敗→除名という流れの産物だった。同氏はこの前にも日本プロレスを離脱し東京プロレス(Ⅰ)に転出し、そこからの出戻りを経験している。
新日爆誕劇の始まりは1971年11月だった。ジャイアント馬場・アントニオ猪木両氏が中心となって当時の日本プロレス改革を行おうとしていた。社長の芳の里以下役員達を退陣させるというものだったが、改革を一気に進めようとする猪木と、それを性急だという馬場で意見が対立。それでも11月28日役員会議で、猪木と木村昭政氏が帳簿のインチキさや使途不明金について追求し、猪木は更に木村を経理監査役に迎え入れる事を提案。芳の里はあっさりと社長代行の委任状を木村に手渡し、幹部連中の使い込みはストップさせた。
ただ、この暴走とも言える猪木の行動がBI砲の間の亀裂を生じさせた。猪木と木村以下のブレーンは、猪木社長・木村副社長で日本プロレス経営権を手中に収めようと目論んでいたとされる。これを改革ではなく乗っ取りであると考えた馬場は12月3日に「猪木抜きの」選手会を開き、猪木派の計画を上田とともに暴露。
12月6日、大木金太郎選手会長代行が臨時選手会を招集。猪木の選手会からの除名を提案、議決により猪木は選手会から除名処分になった。猪木除名は13日に事務所で正式に発表された。翌14日猪木サイドも反論の記者会見を行い、馬場・上田を裏切り者として非難。馬場はこれに対し、猪木こそ会社を私物化しようとした裏切り者だと「ゴング」誌のインタビューで語っていた。
去る3月1日には日本武道館にて新日本プロレス創立50周年の「旗揚げ記念日」大会が行われ、試合開始前の17時から主要OBを招いて記念セレモニーが行われた。
まず、半年の入院生活から復帰したリングアナウンサー・田中ケロ(田中秀和)氏がリングに上がり、「2022年3月1日、新日本プロレス旗揚げ50周年記念セレモニー、その時が来た! 50年の歴史を作りし、OB達の入場です!」と叫ぶと、井上亘、獣神サンダー・ライガー、小林邦昭、坂口征二相談役、保永昇男さん、タイガー服部、北沢幹之(魁勝司)、ミラノコレクションAT、田中稔、垣原賢人、山崎一夫、藤原喜明、前田日明、越中詩郎、木村健悟、蝶野正洋、武藤敬司、長州力、藤波辰爾(全員敬称略)といったメンバーが集結。例のアレによる入場制限と行動制限のため、フルキャパ14000人超の武道館に入れた観客は3183人。
創始者アントニオ猪木、初代タイガーマスク佐山聡の両氏は闘病中の為欠席(佐山氏はVTRで出演)、佐々木健介、馳浩(当時石川県知事選挙中)、高田延彦、中西学といった所の姿もなかった。因みに馳浩氏は今日現在第20代石川県知事である。(小生としては総理大臣を目指して頂きたかったが…)
現在、NJPW 50th Anniversaryという特設サイトが開かれている。記念のエキシビション(試合ではなく展覧会)=「シンニチイズム NJPW ism」も東京・名古屋・福岡で行われ好評を博し、7月には広島での開催も決定。
一時期はもうダメかとも思われていたが、奇跡のV字回復を成し遂げて何回目かの黄金時代を謳歌している新日本プロレス。2000年辺りは猪木氏が仕掛けた格闘技路線で自滅して、90年代を牽引した主力レスラーが次々と退団し、そこにプロレスリング・ノアの台頭もあって苦境に立たされまくった時代すら隔世の感がある。
第2代社長で現在相談役の坂口征二氏は旗揚げメンバーではない。旗揚げ時に、坂口のタニマチであった中村産業社長を通じて、1000万円の支度金を提示し新日プロへの参加を要請するがその時坂口は拒否。日本プロレスは猪木に代わる看板として坂口を売り出そうとしていたが、上手く行かず。日プロと新日の合併も大木金太郎が反対しご破算に。
その翌年=1973年に猪木と全く対等の条件という約束で、日本プロレスから木村聖裔(健吾)、小沢正志(キラー・カーン)、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍した。NETテレビは、坂口氏合流を条件にテレビ中継=ワールドプロレスリングを開始。ワールドプロレスリングも来年で50歳という事になる。(肝心のテレビ朝日が来年まで保つかが不安…草叢)
坂口氏合流の背景として、日本プロレスで東京タワーズをG. 馬場と組んでいた坂口、当時の状況からすると全日本プロレス側に行くと思われていた。しかし、全日が鶴田友美(ジャンボ鶴田)獲得に動いていた事で、馬場、鶴田と被ってしまう事を懸念した上に、馬場元子女史とも会わなかった事で新日に行ったのではないかと一説では言われている。アントニオ猪木の強烈すぎるキャラクターに対して、坂口が最高最強の#2であり続けた事が新日の発展を支えていたというのは間違いない。1989年に社長に就任すると猪木時代の借財を8年で返済、約10年の坂口体制下で離脱レスラーはいなかった。
新日が爆誕した後だったが、それまで日プロを中継していた日本テレビの画策で、ジャイアント馬場氏も日プロを離脱→全日本プロレス創立という流れになった。この時、日本テレビは猪木にも交渉を持ち掛けていた事により、「猪木氏を日本テレビに出演させない為に独立した」と馬場氏も後に明言していた。これが全日本プロレス爆誕の背景の一つであろう。
72年7月29日に日本プロレスからの独立を発表、全日本プロレス旗揚げの記者会見は10月16日(ヒルトンホテル)だった。日本テレビと百田家(力道山)のお墨付きを得て21日に旗揚げ前夜を行い(町田市体育館)、22日に旗揚げ興行(日大講堂)を行った。外国人レスラー招聘ルートもガッチリ確保して日プロからの妨害工策も利かない状況で順調に滑り出した。
1972年秋から日本プロレス・国際プロレスに加えて、新日本プロレス・全日本プロレスという4団体時代が73年4月まで約半年続いた。
73年4月に日本プロレスは解散、力道山死去から10年と保たなかった。その後、大木金太郎ら9名の「日本プロレス残党」は「百田家預かり」となって全日本プロレスに合流するが、冷遇を喰らう破目になったのは有名。
80年代中盤まで新日に押されまくっていた「ワルツ」な全日だったが、ジャパンプロレス参戦~天龍革命という中で「明るく楽しく激しいプロレス」を確立し、90年代には「四天王プロレス」等で一大ブームを起こし、まさに全盛期を謳歌した。
だが、1999年1月に馬場氏が61歳で死去、その後は2000年に三沢光晴氏以下大部分のレスラーやスタッフがプロレスリング・ノアに移動。これを以って、日本テレビも全日本プロレス中継を終了し、同局保有の全日本プロレスの株式も手放した。
その後だが、2002年に新日を退団していた武藤敬司を迎え入れて、そこから「武藤体制時代」が約10年続いた。
その後2012年に白石伸生氏の下で全日本プロレスシステムズに移行した。
それから2年、2014年6月には秋山準氏が復帰して社長に座った。同年7月1日、全日本プロレス・イノベーション株式会社と、同社の完全子会社となるオールジャパン・プロレスリング株式会社が発足。
翌2015年12月にはこの両会社の親子関係は解消、興行権がオールジャパンPWに完全移行された。これよりオールジャパン・プロレスリングが中心となり経営を行っていくことになった。
2019年7月になると、福田剛紀氏が社長、秋山準氏はジェネラルマネージャーという体制になった。
その翌2020年になると、「脱秋山」という方針が打ち出され、秋山氏はDDTにレンタルされた後、全日本プロレスを正式退団。2021年3月には選手会長だった諏訪魔(諏訪間幸平氏=当時44歳)が専務執行役員に就任
今年9月18日には50周年記念大会を日本武道館で開催予定。
てなわけで次回=Chapter 28へと続く!
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