Dufftown 街角ミュージック

マイナーパワーがこの世を救う。今こそ日本を大和民族の手に取り戻せ!連綿と受け継がれる日本と大和民族を護ろう。 害人天国を~、ブッ壊す!

Japan 1st! God Bless Japan!
Make 大和民族 Great Again! Make 大和民族 Strong Again!
Make 大和民族 Wealthy Again! Make 大和民族 Safe Again!
言論表現の自由は神与のものとして何があっても護るべき!

旧名義の画像が混在しているのは御了承願いたい
記事並び画像の無断使用転載はこれを固く禁ず!
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今から50年前は、プロレス界でもビッグバンに当る様な事が起きた年だった。言い方を換えると、現代的プロレスの2大源流が誕生した年だったのだろうか?
1972年1月13日、アントニオ猪木こと猪木寛治が新日本プロレスリングK.K.を設立、同年3月6日旗揚げ興行を大田区体育館で挙行。当時のメンバーは、アントニオ猪木、魁勝司、山本小鉄、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳、豊登(条件付き)、Karl Gotch=選手兼ブッカー、レフェリーのユセフ・トルコ(Yusuf Omar)
旗揚げ興行のメインカードは猪木対ゴッチで、ゴッチの勝ちだった。


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猪木氏は新日プロを作ったのはクーデター失敗→除名という流れの産物だった。同氏はこの前にも日本プロレスを離脱し東京プロレス(Ⅰ)に転出し、そこからの出戻りを経験している。

新日爆誕劇の始まりは1971年11月だった。ジャイアント馬場・アントニオ猪木両氏が中心となって当時の日本プロレス改革を行おうとしていた。社長の芳の里以下役員達を退陣させるというものだったが、改革を一気に進めようとする猪木と、それを性急だという馬場で意見が対立。それでも11月28日役員会議で、猪木と木村昭政氏が帳簿のインチキさや使途不明金について追求し、猪木は更に木村を経理監査役に迎え入れる事を提案。芳の里はあっさりと社長代行の委任状を木村に手渡し、幹部連中の使い込みはストップさせた。

ただ、この暴走とも言える猪木の行動がBI砲の間の亀裂を生じさせた。猪木と木村以下のブレーンは、猪木社長・木村副社長で日本プロレス経営権を手中に収めようと目論んでいたとされる。これを改革ではなく乗っ取りであると考えた馬場は12月3日に「猪木抜きの」選手会を開き、猪木派の計画を上田とともに暴露。
12月6日、大木金太郎選手会長代行が臨時選手会を招集。猪木の選手会からの除名を提案、議決により猪木は選手会から除名処分になった。猪木除名は13日に事務所で正式に発表された。翌14日猪木サイドも反論の記者会見を行い、馬場・上田を裏切り者として非難。馬場はこれに対し、猪木こそ会社を私物化しようとした裏切り者だと「ゴング」誌のインタビューで語っていた。



去る3月1日には日本武道館にて新日本プロレス創立50周年の「旗揚げ記念日」大会が行われ、試合開始前の17時から主要OBを招いて記念セレモニーが行われた。
まず、半年の入院生活から復帰したリングアナウンサー・田中ケロ(田中秀和)氏がリングに上がり、「2022年3月1日、新日本プロレス旗揚げ50周年記念セレモニー、その時が来た! 50年の歴史を作りし、OB達の入場です!」と叫ぶと、井上亘、獣神サンダー・ライガー、小林邦昭、坂口征二相談役、保永昇男さん、タイガー服部、北沢幹之(魁勝司)、ミラノコレクションAT、田中稔、垣原賢人、山崎一夫、藤原喜明、前田日明、越中詩郎、木村健悟、蝶野正洋、武藤敬司、長州力、藤波辰爾(全員敬称略)といったメンバーが集結。例のアレによる入場制限と行動制限のため、フルキャパ14000人超の武道館に入れた観客は3183人。
創始者アントニオ猪木、初代タイガーマスク佐山聡の両氏は闘病中の為欠席(佐山氏はVTRで出演)、佐々木健介、馳浩(当時石川県知事選挙中)、高田延彦、中西学といった所の姿もなかった。因みに馳浩氏は今日現在第20代石川県知事である。(小生としては総理大臣を目指して頂きたかったが…)


現在、NJPW 50th Anniversaryという特設サイトが開かれている。記念のエキシビション(試合ではなく展覧会)=「シンニチイズム NJPW ism」も東京・名古屋・福岡で行われ好評を博し、7月には広島での開催も決定。
一時期はもうダメかとも思われていたが、奇跡のV字回復を成し遂げて何回目かの黄金時代を謳歌している新日本プロレス。2000年辺りは猪木氏が仕掛けた格闘技路線で自滅して、90年代を牽引した主力レスラーが次々と退団し、そこにプロレスリング・ノアの台頭もあって苦境に立たされまくった時代すら隔世の感がある。

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第2代社長で現在相談役の坂口征二氏は旗揚げメンバーではない。旗揚げ時に、坂口のタニマチであった中村産業社長を通じて、1000万円の支度金を提示し新日プロへの参加を要請するがその時坂口は拒否。日本プロレスは猪木に代わる看板として坂口を売り出そうとしていたが、上手く行かず。日プロと新日の合併も大木金太郎が反対しご破算に。
その翌年=1973年に猪木と全く対等の条件という約束で、日本プロレスから木村聖裔(健吾)、小沢正志(キラー・カーン)、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍した。NETテレビは、坂口氏合流を条件にテレビ中継=ワールドプロレスリングを開始。ワールドプロレスリングも来年で50歳という事になる。(肝心のテレビ朝日が来年まで保つかが不安草叢


坂口氏合流の背景として、日本プロレスで東京タワーズをG. 馬場と組んでいた坂口、当時の状況からすると全日本プロレス側に行くと思われていた。しかし、全日が鶴田友美(ジャンボ鶴田)獲得に動いていた事で、馬場、鶴田と被ってしまう事を懸念した上に、馬場元子女史とも会わなかった事で新日に行ったのではないかと一説では言われている。アントニオ猪木の強烈すぎるキャラクターに対して、坂口が最高最強の#2であり続けた事が新日の発展を支えていたというのは間違いない。1989年に社長に就任すると猪木時代の借財を8年で返済、約10年の坂口体制下で離脱レスラーはいなかった。

新日が爆誕した後だったが、それまで日プロを中継していた日本テレビの画策で、ジャイアント馬場氏も日プロを離脱→全日本プロレス創立という流れになった。この時、日本テレビは猪木にも交渉を持ち掛けていた事により、「猪木氏を日本テレビに出演させない為に独立した」と馬場氏も後に明言していた。これが全日本プロレス爆誕の背景の一つであろう。
72年7月29日に日本プロレスからの独立を発表、全日本プロレス旗揚げの記者会見は10月16日(ヒルトンホテル)だった。日本テレビと百田家(力道山)のお墨付きを得て21日に旗揚げ前夜を行い(町田市体育館)、22日に旗揚げ興行(日大講堂)を行った。外国人レスラー招聘ルートもガッチリ確保して日プロからの妨害工策も利かない状況で順調に滑り出した。
1972年秋から日本プロレス・国際プロレスに加えて、新日本プロレス・全日本プロレスという4団体時代が73年4月まで約半年続いた。
73年4月に日本プロレスは解散、力道山死去から10年と保たなかった。その後、大木金太郎ら9名の「日本プロレス残党」は「百田家預かり」となって全日本プロレスに合流するが、冷遇を喰らう破目になったのは有名。


80年代中盤まで新日に押されまくっていた「ワルツ」な全日だったが、ジャパンプロレス参戦~天龍革命という中で「明るく楽しく激しいプロレス」を確立し、90年代には「四天王プロレス」等で一大ブームを起こし、まさに全盛期を謳歌した。
だが、1999年1月に馬場氏が61歳で死去、その後は2000年に三沢光晴氏以下大部分のレスラーやスタッフがプロレスリング・ノアに移動。これを以って、日本テレビも全日本プロレス中継を終了し、同局保有の全日本プロレスの株式も手放した。
その後だが、2002年に新日を退団していた武藤敬司を迎え入れて、そこから「武藤体制時代」が約10年続いた。


その後2012年に白石伸生氏の下で全日本プロレスシステムズに移行した。
それから2年、2014年6月には秋山準氏が復帰して社長に座った。同年7月1日、全日本プロレス・イノベーション株式会社と、同社の完全子会社となるオールジャパン・プロレスリング株式会社が発足。
翌2015年12月にはこの両会社の親子関係は解消、興行権がオールジャパンPWに完全移行された。これよりオールジャパン・プロレスリングが中心となり経営を行っていくことになった。

2019年7月になると、福田剛紀氏が社長、秋山準氏はジェネラルマネージャーという体制になった。
その翌2020年になると、「脱秋山」という方針が打ち出され、秋山氏はDDTにレンタルされた後、全日本プロレスを正式退団。2021年3月には選手会長だった諏訪魔(諏訪間幸平氏=当時44歳)が専務執行役員に就任


今年9月18日には50周年記念大会を日本武道館で開催予定

てなわけで次回=Chapter 28へと続く!



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まだ1972年の話をしているのか?という感じだが、1972年はネタ多し。丁度半世紀という事で具合も良かろう。
政権周辺で不祥事が起きるとそれに対して、「何チャラゲート事件」なんて言う言葉を使うが、その始まりはここでフィーチャーするウォーターゲート事件で、この事件からも50年である。


事件の主人公となったアメリカ合衆国第37代大統領=Richard M. Nixonアイルランドをルーツに持つ、同じ様にアイルランド系のJFKとは熾烈なライバル関係になるのであった。1946年カリフォルニア州から下院議員に初当選、50年には上院議員に鞍替え。そして、同じ選挙で初当選した中にはJFK(マサテューセッツ州)がいたのである。
Nixonは下院議員になると超保守派として、Joseph McCarthyと共に凄い反共運動を推進し、対立する政治家達を片っ端から共産主義者だと言っては一方的に糾弾、それがリベラルなジャーナリストの反感を買い、そこからメディア敵に回した。保守的思想が故に、熱狂的な支持層も獲得したものの、敵も多かった。特にメディアからは総スカンだった様だ。

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第34代大統領=Dwight D. Eisenhower(D. アイゼンハワー)は1952年の大統領選挙で当時39歳だったニクソン氏を副大統領候補に指名した。しかし、地元の有志達が作った支援基金団体から政治活動資金の援助を受けていて、その事をNew York Post紙に「秘密信託基金」として書かれて責められ、スキャンダルにされた。アイゼンハワー陣営では副大統領候補を挿げ替える動きまであったが、Nixon氏は1952年9月23日夜にTVで自ら潔白を訴える演説を行う事とした。それが有名な「Checkers Speech」であった。斯くして一度はTVの力で窮地をしのいだものの、その後はTVを始めとしたメディアに苦しめられ続けた。

Eisenhowerの下で副大統領を2期務めた後、1960年大統領選挙で共和党の大統領候補になり、民主党のJFKと直接対決に臨んだ。大接戦となった選挙は、両候補の最終的得票率差が0.2pts(JFK=49.7%・3422万984票、Nixon=49.5%・3410万8157票)獲った州はJFKが24州、Nixonが26州だったが、獲得した選挙人数はJFK=303人に対しNixon=219人という結果で、JFK勝利となった。
その後はPepsiCo(ペプシコ)等、アメリカを代表する大企業の顧問弁護士を務め世界中を飛び回り、その傍ら懇意にしていた岸信介を通じ佐藤栄作、池田勇人とも会談を持った。これが沖縄返還に接続して行った。
中華人民共和国(中国凶惨党)の早期承認を説いていたのもこの時期。


1968年に大統領選挙に満を持して再挑戦すると、今度はやはり超接戦の選挙を制して、アメリカ大統領の椅子をGETだぜ!となった。
Nixon政権というとニクソンショックは有名で、中華人民共和国に翌年訪問すると発表した第1次、ドルと金との交換停止+10%の輸入課徴金実施を行った第2次。更には東西のデタントと1969年7月の所謂「ニクソンドクトリン」からヴェトナム戦争を終結に持って行ったのも大きい。かなり前の記事で書いてもいるが、沖縄の日本復帰を行った事も大きい。

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1972年6月、日本では佐藤栄作が首相からの退任を発表したその裏で、現役の大統領を辞任させる事になる事件が起きた。それがWatergate scandal(ウォーターゲート事件)であった。
このスキャンダルの端緒は、1972年の大統領選挙戦のさなかに、5人の人間が野党だった民主党本部のあったWatergate Building(ワシントンDC)に盗聴器を仕掛けようとして侵入したが、警備員に発見され警察に逮捕されたことであった。この犯人グループがニクソン大統領再選委員会(Committee to Re-elect the President)の関係者であると判明。当初Nixon氏とホワイトハウスのスタッフは「侵入事件は政権には無関係」の立場をとったが、次第にWashington Post紙等の取材記事によりこの盗聴事件に政権内部が深く関与していることが暴露された。


この侵入事件が起きたのは現地時間1972年6月17日午前2時、日本で佐藤栄作退任会見が行われたのと大きく変わらない時間帯と思われる。同年の選挙ではNixon氏は完勝、抑々が現職だから有利なのは牛馬犬猫でも判る話。(現職が撒けるというケースは少ない、2020年のアレは選挙ではなくクーデター)Nixonサイドは1960年・68年の選挙共々非常な接戦で1勝1敗、現職として臨む選挙でも自信が無かったかも知れないが、余計な事を行って墓穴を掘る破目になった。
Washington Post紙記者のBob Woodward及びCarl Bernstein両名のこの事件における卓越した調査報道=Investigative Reportingは有名。両記者独自の調査から事件に関する様々な事実が紙面に発表された。その内容の多くは、FBI等の政府調査官は既に掴んでいたものの、このスキャンダルに対する世間の注目を集める事となり、大統領やその側近を窮地に追い込む結果となった。その後はCIA、FBI、ホワイトハウスが絡んだ暗闘の末に、73年1月8日、事件を実行したとされる7人が大陪審に掛けられ、5名が有罪を認めた


73年2月には上院で特別委員会(Senate Select Committee on Presidential Campaign Activities)が設けられた。大統領副補佐官Alexander P. Butterfield が、ホワイトハウスの録音システムが大統領執務室中の全会話を自動的に記録しており、その録音テープが存在すると発言。そこから事件はこの録音テープの提出を要求する側とそれを拒否する側との攻防が中心になった。

10月20日にはSaturday Night Massacreという出来事も起きた。事件のSpecial counsel(特別検察官)を解任し、それに伴い司法長官と同副長官の2人を辞職に追い込んだ出来事で当時のアメリカ国民に衝撃を与えた。これから録音テープにはNixon氏に非常に不利な内容が入っていると世間に印象付けられて、11月17日に400人の記者の前で弁明の記者会見を行う破目になった。そこで出た有名な発言が「I'm Not a Crock」(私はペテン師ではない)というもの。
こうした抵抗の甲斐もなく、1974年7月30日に連邦最高裁命令で64巻の「録音テープ」を上院調査委員会に引き渡す破目になった。これがNixon氏には事実上アウトの宣告となった。
この時点で、与党だった共和党サイドからも弾劾の動きが出ていて、テープの引き渡しを待たずに下院司法委員会で司法妨害+権力乱用+議会に対する侮辱というトリプルでの弾劾勧告が行われてしまう。
下院本会議での弾劾裁判の発議が議決されて、上院での弾劾裁判が始まるのは避けられなかった。この当時上下院で共和党は少数派で、共和党からもNixon氏支持はほぼZERO~っ!


万事休すとなったNixon氏は8月8日夜、ホワイトハウスの大統領執務室から国民へのテレビ演説で、8月9日正午に辞任することを発表した。副大統領だったGerald Rudolph Ford Jr.が大統領昇格となって、その時の宣誓にあった言葉が「Our long national nightmare is over.」(私たちの長い悪夢は終わった)であった。
74年9月、フォード氏は大統領として前任者に対する特別恩赦を行ったので、前大統領になった人物が裁判にかけられる事は無かった。Richard M. Nixon氏が弾劾されて辞職したと言うのはウソ!下院本会議での弾劾決議が出る前に辞職しているので、上院での弾劾裁判を受けてはおらず、弾劾されてはいない。
実際に弾劾を受けた大統領は第17代・Andrew Johnson氏(1868)、第42代・Bill Clinton氏(1998)、第45代・トラ様=Donald J. Trump氏(2021)の3人だけで、弾劾で辞任になったのはいない。


相当端折ったが、民主党本部への不法侵入から大統領辞任まで約2年を要した事件の極々大まかな粗筋はこんな所で、詳しい内容はウェブだけでも幾らでも転がっているので探して頂きたい。てなわけで次回=Chapter 27へと続く!



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2022年、大きな節目」も重苦しいテーマの続いたが、このChapter 25では1972年の鉄道の話題を行きたい。1972年は日本の鉄道100周年、今年2022年は150周年である
横浜・京都・東京で路面電車廃止が一気に進んだ年でもあった。横浜で市電とトロリーバスが全て廃止になったのは4月1日、東京都電も荒川線以外の路線は11月12日までに廃止になっている。京都でも3路線(四条線・千本線・大宮線)が廃止された。
この時期は、大都市への人口集中とモータリゼーションがガチャコーン!と接続して、地方私鉄の廃止も目立った一方で、国鉄ではキングボンビーこと鉄建公団に作らされた「国鉄殺死の」ローカル線の開業は結構あった。
横浜の市電は春に廃止されたが、年末12月16日には市営地下鉄1号線(現ブルーライン)が伊勢佐木長者町~上大岡間=5.2㎞で開業。
山陽新幹線が出来て=新大阪~岡山、新幹線が新大阪から西に延びたのもこの1972年。
総武本線が東京駅に乗り入れたのもこの年。同線が東京駅に乗り入れた事で、起点も東京になり、御茶ノ水~錦糸町は支線に降格。


この年、今でも在来線特急として貴重な地位を占める列車が運行開始となった。
その一つはぐったり吐くもじゃなかった、やくも。1972年3月15日の国鉄ダイヤ改正でデビューしたこの列車、運行開始当初は1日4往復のみだったが、翌73年に往復になった(50年後の現在は最大15往復)

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くろしおがげろしおでなくなった今、エチケット袋必須なのはこのやくものみになった
この列車も最初から381系で吐くもだった訳では無い。1972年当時の伯備線は非電化だったのでキハ181系だった。1975年にディーゼル列車で初めてエル特急指定を受けた。
運行開始から10年の記念の年、1982年7月から伯備線全線+山陰本線・伯耆大山~西出雲間電化に伴い、381系導入+エチケット袋必須化と相成った。序に急行「伯耆」を吸収した事もあって8往復化。381系やくも」も今年で40周年ということになった。今年のダイヤ改正で一部列車が不定期化された。
これから導入予定の273系ではエチケット袋はホンマに不要になるのだろうか?(抑々吐く事ありきみたいな列車はアカンやろ!)


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やくもの爆誕と同時にデビューした列車の中に、やはり現在は岡山に発着しているしおかぜ南風がある。四国における初の特急列車でもあった。しおかぜは今でこそ全て電車だが、1972年当時はキハ181系での運行で、1993年まで使用されていた。1992年には8000系電車が導入されたが、2016年ダイヤ改正(8600系導入)まで気動車の運用が残っていた。しおかぜと共に爆誕したのが南風で、運行開始時はキハ181系だった。使用車両も現在の2700系で4代目である。
運行開始時は高松始発だったのは言うまでもない。岡山に発着する様になったのは1988年の瀬戸大橋線開業からである。これ等の列車の運行開始には山陽新幹線開業が深く絡んでいる。(南風は岡山始発で・高松始発列車はしまんとになっている)


jrsk2010@bicmin01
2000系南風はもう見られない。

岡山というと嘗て下津井電鉄・電鉄線が存在していた。同社は今もバス会社として存在しているが、1991年までは鉄道(762㎜ナローゲイジ)も経営していた。茶屋町~下津井の約20㎞の路線があったが、1972年4月1日にその凡そ70%に当る茶屋町~児島間が廃止になった。


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5300系5321F=2017年の8連時代(現在は7連)

阪急5300系も50周年である。3300系の駆逐が進んで、今度は5300の番かと言われる。
梅田方が先頭Wパンタというレイアウトは2800系・2300系で始まり、5100系後期型と5300系で定着したと言える。6300系は例外だが、その後9000/9300系まで続いた。


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1972年登場の車両でこれを抜きに語れないという存在が、何と言っても183系であろう。485系ブラザーズと共に21世紀まで国民的特急車であり続けたその功績の偉大さは、これ以上語る必要になるもない程語られている。

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京王では20m4ドア時代の幕開けになった名車6000系のデビューがこの年。京成では3500形、横浜市交通局では初代になる1000形、小田急ではガイコツこと9000形(1973年のローレル賞はコイツ)

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先日、一般型電車の大々的世代交代が発表された(ホンマにやれるのか?)近鉄では、1000系・1010系・1200系(Ⅰ)・2610系・2800系がデビュー50年になった。40~50年クラスの車両がまだウヨウヨしている近鉄だが、この世に永久の物なんて無い


色々な車両もデビューしたが、前述の通りにこの年地方私鉄で廃止になったのは、加越能鉄道(加越能バスの前身)加越線、北陸鉄道能登線、花巻電鉄(後に岩手県交通に吸収)といった辺り。

北陸トンネル火災事故もこの年の出来事だった。11月6日の午前1:04頃、全長13870mの北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行きEF70牽引の急行「きたぐに」=10系客車15両の、11号車食堂車(オシ17)の喫煙室椅子下から火災が発生。古い車両で燃えやすい素材も多く使われていて、長大トンネル内の場合における火災対策の不備だった事も加わって、乗務員1名を含む30名が死亡し、714名が負傷した。犠牲者の死因は焼死ではなく、一酸化炭素中毒死であった。
若し、当時のマニュアルを無視してでもトンネル内で緊急停止せず、出口まで行っていたら被害は大幅に少なくて済んだと言うのが現在の定説である。「トンネル内火災時は、トンネル抜けるまで停車しない」という運転マニュアルはこの事故を契機に追加されたものである。又、車両の難燃化工事も進められていった。


次回=Chapter 26へと続く!



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前記事=丸ビル展望スペースでの作例集に続いては、そのすぐ近くで撮れる屋外の夜景で行きたい。但し、丸ビルのものとは別日の撮影になる。丸ビルからは200m程の距離しかないが、こちらも丸ノ内を代表する夜景スポット、その名は和田倉噴水公園

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この公園には抑々、1961年に上皇陛下御成婚を記念して創建された大噴水(6mまで吹き上がっていた)があったが、それを1993年6月の今上天皇御成婚を機に、旧大噴水の原型を活かしつつも装いを一新して作り変えた。リビルドする時のテーマは、「継続と新たな発展」だったたそうで、1995年6月に完成したものが現在の和田倉噴水公園。当時の建設委員会の碑に刻まれていた名は、委員長=吉田茂。以下、委員として、川端康成・梅原龍三郎・小泉信三・丹羽文雄という錚々たる名が刻まれていた事から、この公園建設は当時の国にとっての重要な事業の一つであった事が窺い知れる。

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この公園の辺りは、江戸時代以前は海の入江に面していたそうだ。これが江戸時代の初期になると海面は埋め立てられ、倉庫や海上輸送の拠点として使われていたらしい。その後は幕府御用地や大名屋敷等、数十年間隔で用途を変えながら利用されていた模様である。

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東京駅丸の内正面口から和田倉門の交差点を通って皇居に伸びる道(都道404号)沿いにあるのがこの公園。この都道は新任の外国大使が信任状を天皇陛下に捧呈する儀式=信任状捧呈式の際に大使を送迎する儀装馬車の隊列が通過する事で有名。儀装馬車は二頭曳座馭式と呼ばれ既に100年程度は使われていて、美術品的価値も非常に高い。この信任状捧呈式、実施回数はは毎年40回程度で、特に11・12月が実施回数が多い様である。

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噴水とライトアップで有名なこの公園だが、ウェディングの撮影も多い。この時も3組位はクルーがいて非常に邪魔だった。露光時間が10~15秒程度になる様にしていたが、スローシャッターで消しきれないので現像時に誤魔化して消すというちょっと面倒な作業も要ったりする。ワイドレンズだと、非常に小さくしか写らない上に被写体ブレしてくれるのですごく気にはならないと言えばそれまでだが…

噴水の時間は、10~20時。この絵の様に高さ約6mまで吹き上げる噴水は、清涼感を与えてくれるが、勿論夜景撮影も噴水が思いっきり噴き上げてくれるタイミングに合わせい。吹き上げは、平日は1時間に1~2回、夏期の土日祝日は時間当たり4回程度になるらしい。ライトアップの時間は、日没から20時まで。

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噴水の噴き上げは1回で10分程度しかないので、時間との勝負である。この撮影日は2月1日、噴き上げていたのは17時30分から10分間で、夜景の美味しい時間とドンピシャだった。
この公園の所在地は丸の内でなく、皇居外苑である。画面右下側に写っている公園内の平屋の建物だが、パレスホテルによって運営されていたレストランは去年3月閉店となり、その跡に入り込んだStarbucksは有名(営業=7~21時)。オープンしたのは2021年7月。


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噴き上げてくれないと絵的に超ショボい!ここでの夜景撮影は、噴水の噴き上げとキッチリタイミングを合わせて、尚且つグズグズしないで効率良く撮れるか、そこに尽きる。
公園の奥はパレスホテル、パレスビル、日本生命丸ノ内ガーデンタワー、みずほ丸ノ内タワー、丸の内テラス、三井住友銀行本店といった所が背景を構成している。昔に比べて都会的になり過ぎだとの声もあるが、静かな公園と丸の内の如何にも都心というビル群のコントラストを楽しみたい。


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吹き上げが終ったので、公園を出て都道404号沿い・和田倉門守衛所跡の辺りからライトアップされた和田倉橋・和田倉濠を真ん中にパレスホテルその他のビル群+日比谷通り(国道1号・20号指定区間)という辺りを絡めて、この辺では割と定番な絵作り。

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少しずつ移動して角度を変えながらの撮影で数カット。この場所の昼間の画像はこちら

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この夜景、スケールこそ非常に小さいが、水辺+水鏡ライトアップ幹線道路+灯の多いビル群という具合で実は高ポイントアイテムが揃っているのである。

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本当は日本生命丸ノ内ガーデンタワー側に行っての撮影もしたかったが、生憎時間切れになってしまった。この時は風が然程なかったので水面にビル群の水鏡も割とはっきり写ってくれた=ポイントアップ。

次回=Part 9へと続く!



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5月になって梅雨のはしり状態でどちらかというと梅雨寒の状況が続いていたりするが、5月でこれだけ天気悪くて寒い日もあると体調をガチで崩してしまう。
前記事では東京でも超メジャーな三軒茶屋にあって、夜景スポットとしてはあまりメジャーとは言えないキャロットタワー展望室からの夜景を取り上げた。
「外観が人参色なのでキャロットタワーの名が付いた」とかぬかしたバカなYouTuberがいたが、それは丸っきりのウソ。タワーはレンガ色人参色ではない。

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さて、今回Part 7では世田谷から一気に都心へ行って、丸の内の夜景をフィーチャーしたい。丸の内で夜景スポットというと、KITTE屋上・同4F・丸ビル5Fテラス・新丸ビル丸ノ内ハウス・東京国際フォーラム7F・行幸通り遊歩道等がメジャーだが、穴場スポットとして紹介したいのが丸ビル35Fの一寸した展望スペース。

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実はこの展望スペースでの撮影は2010年11月以来、11年3ヵ月振りであった。
(2010年の撮影に関する記事はこちら

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丸ビル35・36Fというと、夜景の楽しめるレストランでは有名だが、同じフロアに小さな展望コーナーがあるのは知られていないかも知れない。
ホントに穴場という感じの場所には、南~南西方向を向いた窓が1面あるだけ、そばにはグランドピアノが置いてある(以前は生演奏も行われていた)事もあって、実際に夜景撮影に使用出来る窓辺は4m程度だろうか。


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この展望スペースでは、有楽町方向を向いての絵作りか、霞が関・東京タワー方面を向いてのそれかという凡そ2択状態になる。
霞が関方向を向いての場合、もっと西寄りにレンズを向けられて且つ西方向に雲一つなく、澄み切った状況なら富士山をフレームインさせる事も可能らしい。ただ、この日は生憎南西方向にえげつない雲が沸いていて富岳フレームインは不可能だった。この展望スペースから富士山を狙う人もいるそうである。


今宵は簡単に済ませて、次記事=Part 8に続く!



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