「西北とかいう関西人気No.1」というシリーズがあったのを覚えておられるか?
最近は「2022年、大きな節目」シリーズその他に掛かりきりになって、このシリーズはPart 11で一度休止状態になり、2月に再開したがPart 14の後は再び放置状態になってしまった。
ここでもう一度再開し、最終回まで持って行きフィニッシュしようと思う。
西宮でもエエとこの夙川は桜で有名だが、香櫨園浜から苦楽園駅までの4㎞程・18haの夙川河川敷緑地が整備されている。R2から南の部分はオアシスロードとなっている。
1920年代に阪神地域の河川も次々と改修された。近隣の芦屋川・石屋川・住吉川も相次いで改修された。西宮市は夙川に関しては宮水と松林を護る河川敷公園として整備する事を国に申し入れ、1932年に都市計画事業としての整備が決定。その財源の一部は沿道の市民の寄付で賄われたので、市民が作った川という所だろうか?
河川敷公園は1937年に竣工したが、その時分その河川敷に植わっていたのは松ばっかりだった。
そこに桜が植えられたのは1949年からだが、桜の植樹に際しては「桜博士」の異名を持っていた笹部新太郎氏に樹の管理に関するアドバイザーを依頼。現在は笹部さくら資料室が白鹿記念酒造博物館内に所在する。笹部氏の死後1978年に同氏が所蔵していた文献や資料、美術品等が市に寄贈され、1982年に白鹿記念酒造博物館に寄託されて資料室になった。
1965年の市制40年で市花が桜と定められ、その翌1966年からさくら祭りが行われている。1975年までの会場は甲山だったが、76年から夙川河川敷に変更となった。西宮生まれの桜品種も存在し、西宮権現平桜と夙川舞桜がある。西宮権現平桜は笹部氏が日本一の山桜とした権現平桜から生まれている。夙川舞桜は夙川周辺にあった桜の自然交配で生まれた品種とされ、2005年に市民の投票で名付けられた。
夙川ではカトリック夙川教会(1932~)も有名で、パリのSainte Chapelle(サント・シャペル)聖堂をモデルに建てられたネオ・ゴシック建築である。柱の無いチャペルやステンドグラスが有名で、あの遠藤周作も洗礼を受けていた。阪急の駅の南側には1934年~1995年まで存在したLa Pavoni(ラ・パヴォーニ)という喫茶店は有名で、野坂昭如や小松左京といった文化人達にも愛された超人気店だったが、阪神大震災でダメージを受けた事もあって消滅。
1971年にはR2より南に川沿いの遊歩道も整備された。去年で丁度50年であった。
夙川は晩秋の桜が紅葉する時期もエエ!
夙川の歴史を語る上で欠かせない人物がいる。商船会社の支店長として1948年、日本にやって来たW.J. オハラ氏とベティ婦人である(Walter John and Betti O'Hara)オハラ夫妻が戦後の貧窮にあえぐ夙川に希望の光が差す事を祈って、1948年から駅のすぐ近くにある羽衣橋にクリスマスツリーを建てた。
夫妻は帰国した後も知人を経由して飾りつけの為のバジェットを送り続けていた。そして夫妻の死後もその娘と自治会の間で交流があるという。羽衣橋のツリーだが駅前の再開発を機に1983年には大きな5mのモミの木が駅前のロータリーに植えられ、そっちに移動した。それ以来自治会を主体として年末の点灯式が行われ続けている。
ベティ・オハラ女史はカメラマンでもあったので、夙川居住時代に撮った3000点程のフィルムはアメリカ帰国時、夙川自治会に寄託されて貴重な資料として保管されている。
夙川駅の西にはW. ヴォーリス所縁の建物等が建っていた上に、戦前は外国からの商社マン・銀行員・領事館関係者・宣教師等が沢山暮らしていて、特に旧パインクレストホテル(終戦直後の米軍接収時代に野坂昭如氏が働いていた事があったらしい)周辺は「外人村」なんて呼ばれた。 夙川駅の北側の雲井・殿山には終戦後進駐軍に接収された洋館も多く存在した。
戦後暫くすると駅前に商店が増えてきて、1950年に40店舗が入った夙川市場が出来た。阪神西宮の所の公設市場から人の流れが移って来た。
1974年、駅南側に高い建物を建て駅前の商店を移設し、再開発を図るという「夙川駅前再開発事業」がスタート。1977年10月に夙川のランドマークとも言える夙川グリーンタウンがオープンしたが、この再開発と同時並行で区画整理事業が進められた。民間組合による再開発と市主体の区画整理が同時に行われるのは当時はレアケースだった。
次回が最終回の予定、Part 16へと続く!
当サイトは各種ランキングに参加しておりますので、画面右側若しくは記事内のバナーをクリック下さい。
最近は「2022年、大きな節目」シリーズその他に掛かりきりになって、このシリーズはPart 11で一度休止状態になり、2月に再開したがPart 14の後は再び放置状態になってしまった。
ここでもう一度再開し、最終回まで持って行きフィニッシュしようと思う。
西宮でもエエとこの夙川は桜で有名だが、香櫨園浜から苦楽園駅までの4㎞程・18haの夙川河川敷緑地が整備されている。R2から南の部分はオアシスロードとなっている。
1920年代に阪神地域の河川も次々と改修された。近隣の芦屋川・石屋川・住吉川も相次いで改修された。西宮市は夙川に関しては宮水と松林を護る河川敷公園として整備する事を国に申し入れ、1932年に都市計画事業としての整備が決定。その財源の一部は沿道の市民の寄付で賄われたので、市民が作った川という所だろうか?
河川敷公園は1937年に竣工したが、その時分その河川敷に植わっていたのは松ばっかりだった。
そこに桜が植えられたのは1949年からだが、桜の植樹に際しては「桜博士」の異名を持っていた笹部新太郎氏に樹の管理に関するアドバイザーを依頼。現在は笹部さくら資料室が白鹿記念酒造博物館内に所在する。笹部氏の死後1978年に同氏が所蔵していた文献や資料、美術品等が市に寄贈され、1982年に白鹿記念酒造博物館に寄託されて資料室になった。
1965年の市制40年で市花が桜と定められ、その翌1966年からさくら祭りが行われている。1975年までの会場は甲山だったが、76年から夙川河川敷に変更となった。西宮生まれの桜品種も存在し、西宮権現平桜と夙川舞桜がある。西宮権現平桜は笹部氏が日本一の山桜とした権現平桜から生まれている。夙川舞桜は夙川周辺にあった桜の自然交配で生まれた品種とされ、2005年に市民の投票で名付けられた。
夙川ではカトリック夙川教会(1932~)も有名で、パリのSainte Chapelle(サント・シャペル)聖堂をモデルに建てられたネオ・ゴシック建築である。柱の無いチャペルやステンドグラスが有名で、あの遠藤周作も洗礼を受けていた。阪急の駅の南側には1934年~1995年まで存在したLa Pavoni(ラ・パヴォーニ)という喫茶店は有名で、野坂昭如や小松左京といった文化人達にも愛された超人気店だったが、阪神大震災でダメージを受けた事もあって消滅。
1971年にはR2より南に川沿いの遊歩道も整備された。去年で丁度50年であった。
夙川は晩秋の桜が紅葉する時期もエエ!
夙川の歴史を語る上で欠かせない人物がいる。商船会社の支店長として1948年、日本にやって来たW.J. オハラ氏とベティ婦人である(Walter John and Betti O'Hara)オハラ夫妻が戦後の貧窮にあえぐ夙川に希望の光が差す事を祈って、1948年から駅のすぐ近くにある羽衣橋にクリスマスツリーを建てた。
夫妻は帰国した後も知人を経由して飾りつけの為のバジェットを送り続けていた。そして夫妻の死後もその娘と自治会の間で交流があるという。羽衣橋のツリーだが駅前の再開発を機に1983年には大きな5mのモミの木が駅前のロータリーに植えられ、そっちに移動した。それ以来自治会を主体として年末の点灯式が行われ続けている。
ベティ・オハラ女史はカメラマンでもあったので、夙川居住時代に撮った3000点程のフィルムはアメリカ帰国時、夙川自治会に寄託されて貴重な資料として保管されている。
夙川駅の西にはW. ヴォーリス所縁の建物等が建っていた上に、戦前は外国からの商社マン・銀行員・領事館関係者・宣教師等が沢山暮らしていて、特に旧パインクレストホテル(終戦直後の米軍接収時代に野坂昭如氏が働いていた事があったらしい)周辺は「外人村」なんて呼ばれた。 夙川駅の北側の雲井・殿山には終戦後進駐軍に接収された洋館も多く存在した。
戦後暫くすると駅前に商店が増えてきて、1950年に40店舗が入った夙川市場が出来た。阪神西宮の所の公設市場から人の流れが移って来た。
1974年、駅南側に高い建物を建て駅前の商店を移設し、再開発を図るという「夙川駅前再開発事業」がスタート。1977年10月に夙川のランドマークとも言える夙川グリーンタウンがオープンしたが、この再開発と同時並行で区画整理事業が進められた。民間組合による再開発と市主体の区画整理が同時に行われるのは当時はレアケースだった。
次回が最終回の予定、Part 16へと続く!
当サイトは各種ランキングに参加しておりますので、画面右側若しくは記事内のバナーをクリック下さい。