Dufftown 街角ミュージック

穏健主義の波とマイナーパワーがこの世を救う。 連綿と受け継がれる日本と大和民族を護ろう

カテゴリ: 鉄道

コロナ騒ぎで大手メディアが恐怖を煽りまくり、彼方此方の知事はパフォーマンスに躍起になっていた去年の春。何でも自粛だ自粛だStay Home だと旗振り役紛いな奴が出て来ていきっていたあの時。
テメェらそんなにNew York Style が好きなのか?ロックダウンしないとニューヨークみたいになるぞと息巻いて恐怖を煽ったヤツがいたあの時。強引にでもニューヨークみたいにやるのが一流だと思っているのだろう。

実際にロックダウンはしていたわけでもなく、屋外クラスターなんて実際には殆ど考えられない事も分っていたのでそれなりには撮影に行っていた小生だった。

この度の緊急事態宣言もこれで菅政権は支持率がドンドン下がる、小池の支持率は上る(?)。小池のパフォーマンスに付き合わされた3県と政府は一種の被害者である。国の予算をブン取りたいという東京都の意向もあったらしい。国のカネを取りたいがために3県を巻き込んで緊急事態宣言を出せと国にせがんだという事らしい。
飲食店が感染を広げているというのは十分な証拠の無い話である。エヴィデンスがない。厚生労働省は感染者を分析した細かい情報を本当は持っているが、それを絶対に出さない。国籍すら隠すのだから。陽性者の内、実は感染経路が特定出来るのは全体の2割程度である。(まぁ、そんなもんだろう)緊急事態で判るのは、事実上タダで国民の行動を大幅に禁止・制限する。しかも、いとも簡単に監視するなんて、日本が北朝鮮紛いの国家に成り下がっているのは犬でも猫でも判る話。
しかも、感染率だって欧米の10%以下である。アメリカと比較したら50分の1でしかない。COVID-19が抑々、アングロサクソンを狙い打ちするウィルスなのは間違いなかろう。



pf2068@tsmg01
まだコロナで大騒ぎになる前の1月末だったが、その時期は鶴見川も午前アングルが良い。
10時前に通過する5097レ(EF66スジ)なんて狙い目になるのだが、この様にPF が単機でやってきたりもする。冬季ならブルサンのタキがほぼ毎日ある。相鉄‘・JR直通列車がここを通る様になり、運が良ければ185系や215系の試運転に出会えたりもしたものである。
画像は2068号機単機


季節は4月に変って、まさに自粛の嵐が吹き荒れていた時。屋外だし、こんな時にそんなに撮影者は集まらんだろうと思っていたら、意外と人が集まっていた。
同じ事を考える人間はそれなりにいるものだと思った

ph2089@tsmg01
まだ時間が早く、サイドには十分に日が当たらないので正面気味に撮るしかなかった。#2089だった
pf2057@tsmg01
こちらのスジも国鉄色PF が大いに期待されたが、やって来たのは貨物色の2057号機で一同がっくり。
この日はこのPF 以外には相鉄JR直通4本・ももちん2本という釣果だった。
PFに続けてシャッターを切ると、「あぁ~、PF ~,ピーエフ~,永遠の学園~」と歌ってしまいそうになるのだった。小生の世代、自分の学校の校歌は歌えずともP×学園の校歌は歌えるという人間は多かった。これがジェネレーションというものである。
余談だが、P×教団の第3代教主だった御木貴日止氏が去年12月5日に63歳で亡くなっていた。近年は病気がちで信徒達の前に出る事も少なくなっていたとも聞いている。貴日止氏は御木家の養子らしい。



641031@tsmg01
こちらはE235系の甲種回送。本音を言えば、E235系なんてどうでもよかった。9
月末のある日、天気が良くて約半年ぶりに鶴見川の鉄橋に行ってみたら、貨物のダイヤが大幅に変わっていた様だった。
それでも沢山の撮影者がいた。14時頃現場入りしたが、まともなポジションは満員で、線路に張り付く様なアングルでしか撮れなかった。E235系なんて抑々がくだらない車両だから、こんなんでも構わないと言えばそれまでの事である。


Part 2 へと続く!

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1995年は阪神大震災やオウム事件等があった年だが新快速誕生から四半世紀の節目でもあった。そしてここから10年以上に渡って223系が大量投入された。同時に新快速はいよいよ鬼畜スピードキングへと歩み出す。

同系列の0番台は前年に阪和線でデビューしていたが、東海道山陽向けの車両が1995年8月12日に1000番台として48両の陣容でデビュー。0番台とは見た目も変って、前照灯は丸形2灯から角形4灯に変り、221系も巻いていた帯に加えてサイドの窓部分に21世紀の関西急電である事を主張するかのようにライトブラウンのガーニッシュを付けられた。
其の2年後、44両が追加投入された。まだこの頃は骨組み工法で作られ車体に5本だけビードがあった。これはほんの軽いプロローグに過ぎなかった。
1999年に外版に強度を持たせる工法で作られた(E217系と同じ工法)2000番台が投入開始となる。車体からビードが無くなりフラットなボディになった。


2000年3月11日に新快速は223系に統一されて130㎞/hでの運行を開始し、爆走王伝説が幕を開けたのであった。コロナ禍で恐怖を煽っている最中にも130㎞/h運転開始から20年という節目の時を迎えていたのであった。221系が新快速でいられたのは僅か11年であり、新快速は21世紀を鬼畜大爆走の世紀とする事になったのである。
2000年の1次車236両を手始めに2003年の2次車80両、2004~05年に3次車として172両、新快速敦賀乗入れに合わせて4次車32両(2006)、2007年の5次車28両という具合である。(6000番台は除く)
1000・2000番台合計で約400両という陣容で「新快速21」を形成するのだった


223w14@yod01

2001年だったと思うが130㎞/h運転を開始した新快速に乗車した際、関東人である小生は再び大きいカルチャーショックを覚えたものだった。それは幼少期の153系の時より大きかったと思う。全車転換クロスで時間帯によっては補助席も使える、多少の揺れは気にするなと言わんばかりに全力疾走するのは関東にはない事だった。席に座って神戸から大阪に一っ飛びなんて時は恍惚すら覚えたものだった。(揺れが凄くてパンタグラフが離線しストップしたという事もあった様だが)
4ドアロングシート兎に角詰め込めでチンタラ走るJR 東日本にはうんざりである。


223w16@mes01
あのバンパーは無い方がイイ

225i1@yod01
225系、こちらは0番台でしかもI1編成=トップナンバー

そして2010年、JR西日本は223系だけで満足する様な会社ではないと言わんばかりに送り出して来たのが225系である。東海道山陽には0番台68両が投入された
2016年、意味不明なマイチェン車である100番台が登場。
なぜたった6年で顔がこんなに変わる?しかも1000番台ではなく100番台?、0番台と編成記号一緒なのは何で?という疑問を感じた小生である。


225i9@yod01
こちらがちょっと丸みを帯びた魔変更?の100番台

221系は支線に散りながらも一部は網干に残留し本線運用=東海道・山陽での運用に就いていた。ところが2020年それも全部支線に追いやろうと、100番台144両の製造を開始した。
地域輸送も広域輸送もこなすモンスターマシン新快速を京阪神なんてドメスティックな所に閉じ込めておく事が良いのだろうか?
この50周年を機に、新快速も外国に輸出すべきではないだろうかと考える。
それこそ手始めに台湾なんてどうだろうか?
台湾は国土が狭く新幹線は力を持て余し気味であるから、意外とこっちの方が有用だったりするか。北部の基隆(Keelung)~台北(Taipei)~新北(New Taipei)~桃園(Taoyuan)~新竹(Hsinchu)辺りは有望かも知れない。


昭和の爆笑王が林家三平なら、平成そして令和の爆走王はこの新快速様である。

乗車券だけで大阪~姫路1時間、大阪~神戸20分、大阪~京都30分、しかも転換クロスシート。関東なんかでは到底望めない夢のシティコミューターにしてグランドツアラー。この曲を以てこの18キッパーの強い味方、近郊型GTを称えて締めたい。

てなわけで、今回の一曲はVan Halen (ヴァン・ヘイレン)が1986年に放ったヒット曲、" Dreams "
ヴォーカルのD.L. Roth (D.L. ロス)が一度目の脱退の後、Sammy Hagar (サミー・ヘイガー)を迎えて1986年3月リリースしたアルバム” 5150 ”(fifty-one fifty と読む)にイシューされ、同アルバムからの2nd シングルでもあった


どの様な曲かについてはこちらのようつべでも参照されたい。

World turns black and white, pictures in an empty room
Your love starts falling down, better change your tune, yeah
You reach for the golden ring, reach for the sky
Baby, just spread your wings


We’ll get higher and higher straight up we’ll climb
We’ll get higher and higher leave it all behind


Run, run, run away, like a train running off the track
The truth gets left behind and falls between the cracks
Standing on broken dreams, never losing sight, oh
Well just spread your wings


We’ll get higher and higher straight up we’ll climb
We’ll get higher and higher leave it all behind


So baby dry your eyes save all tears you’ve cried
Oh, that’s what dreams are made of
Cause we belong in a world that must be strong
Oh, that’s what dreams are made of


We’ll get higher and higher straight up we’ll climb
Higher and higher leave it all behind
Oh, we’ll get higher and higher who knows what we’ll find


So baby dry your eyes save all tears you’ve cried
Oh, that’s what dreams are made of
Cause we belong in a world that must be strong
Oh, that’s what dreams are made of


And in the end on dreams we depend
Cause that’s what love is made of




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1970年に新快速が誕生して10年後の1980年、3代目の117系が投入される。
117系185系は親戚に当る。関西の117系は料金不要の近郊型として生を享けて賞賛を得たが、関東の185系は急行用だったのが東京の本社の意向で遜色ぼったくり特急形となり世の顰蹙を買いまくった。


117s4@mesc01
117系のこの姿はもう見られない

足回りは特急形の台車+制御器は381系のアップグレード版+その他は115系アップグレード版。外見は157系の発展型だが、フロントに4灯式ライトで中央部にタイフォンが備わる独特なもの。そして嘗ての関西急電を模したカラーリング。
内装が近郊型のレベルではなかった。転換クロスシートで吊革無し、蛍光灯はカヴァーされ内壁は木目調という具合に、競合相手を意識して当時の国鉄としたらギリギリの勝負をしたのではないかと思われる内容である。
大阪鉄道管理局だからこそここまでの意地を見せたと思われる。185系なんて駄作を作る様な東京の本社とはエライ違いである。

そして、1987年に国鉄はばらされて民営化されたが、今から思えば国民がグローバリストとその手先どもに騙されたティピカルな例である。(詳しくは割愛するが)分割民営化なんてあんなバカげたやり方しか選択肢が無かったとは到底思えない。

そんな117系だがその天下は決して長く続かなかった
登場から10年に達する辺りで陳腐化していたのである。高速化と同時に地域輸送の充実化を狙っていたJR西日本、1980年頃に確立されていなかった新しい技術もドンドン実用化されて鉄道車両も新しいステージに入ろうとしていた。機械的には古い技術の焼き直しで作った117系は最高速度110㎞/h、両開き2ドアでデッキこそないものの乗降に手間取る。
新快速の運行形態にも変化は起きていて、運転区間の拡大と停車駅の新設が少しずつ起きていた。1978年に神戸、1985年に新大阪、1986年に山科に停車開始と同時に彦根まで区間延長、1990年にデイタイムのみ芦屋・高槻への停車開始(後に全日停車に)


117s6@kyt01
抹茶色、決して「成れの果て」と呼んではならない

JR西日本としてはローカル輸送にて京阪神間で私鉄との競争に勝つと同時に広域輸送という本来の強みを生かす事が民営化成功へのカギとなった。そんな中1989年、快適性と利便性を両立出来る新たな刺客として1990ローレル賞受賞車みんな大好き221系が登場し、3ドア時代に突入。3ドアで乗降しやすくなって遅延のリスクは減ったが、そこはさすが221系。車内は全て転換クロスシートで居住性も◎。アメニティライナーという名称が付けられたが、それは浸透しなかった
機械的には国鉄末期型の211・213系等の正常進化型みたいな所だが、最高速度は120㎞/hと特急型並みになった。私鉄王国を本格的にブッ壊すための第1弾の刺客としては申し分ないものである。


221a2@mescr01
こういう絵はもう撮れない

251b18@yod01
数年内にこの鉄橋でも見られなくなる

そんな221系、1989年~92年まで6次に渡っての396両の増備だったが、117系を完全に駆逐するには至らなかった。それでも1991年にラッシュ時以外の新快速221系となりデイタイムは120㎞/hに最高速度を引き上げた。1992年の6次車投入で新快速を全部8両以上での運行に改めた。
しかし登場から数年で主役の座を奪う奴が東海道山陽で増殖を開始する。1995年、阪神大震災からの復旧と共にあのモンスターがやって来るのである。


その爆走モンスター登場後の話はPart 3 で取り上げる事とする



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今日は10月1日、東京なら都民の日。小生が子供の頃は公立学校は休校日だった。ただ小生は中学から私立に通っていたので、小学校の時しか都民の日の恩恵にはあずかれなかった。

今日2020年10月1日。それは私鉄王国をブッ壊す、関西の爆走王、特急を抜かす危険なヤツ、そして何といっても18キッパーの強~い見方。そういえば答えは一択、みんな大好き新快速(京阪神)が50周年を迎えた記念すべき日である。
これを機に10月1日を新快速の日にすべきではないかと思う小生である。


223w38@yodg01

件の新快速のご先祖様に当る関西急電といえば42系・52系が活躍し戦後は80系が活躍した伝説の列車である。1934年から42年及び1950年から57年の間で合計約15年走っていた。
1957年に名古屋~大阪間に準急列車(準急料金が必要)が設定され、それと料金不要の急行電車が被る区間があるのはおかしいという事で快速に改められた。時を同じくして80系電車の湘南色への塗装変更も始まった。こうして関西急電は消えていった。


ところで、50年前の1970年というと大阪万博があったのは御存知だろう。当時1歳半だった小生も家族に連れられて行ったというのだが、まるで記憶にない。その期間中は国鉄としても当然、明けても暮れても万博の臨時輸送であったが、コレが終ったらどうするかという事になる。既に国鉄財政は非常に苦しくなりかけていた上に京阪神ではどうしても各大手私鉄と競争になる。

そこで生まれたのが新快速というサービス、関西急電の形を変えた事実上の復活だった。当初は京都~西明石間でデイタイムに1時間おきの6往復が設定されていた。停車駅は大阪・三ノ宮・明石のみという鬼畜な設定は今も語り草である。
初代新快速113系だったが、横須賀線から万博輸送の為に転属したスカ色の車両が充てられた。それが湘南色に中途半端に塗り替えられていったため、混色の新快速が増えていった。


113mh109
スカ色の113系

113l17@kyt01
JR 西日本の113系

嘗ての関西急電は大阪鉄道管理局の意地の様な存在だった。東京の本社に対するレジスタンスでもあった。
新快速もその部分を受け継いだのか、運行当初は同時発車で列車線を走る特急「雷鳥」を新大阪(当時は特急も新快速も通過)辺りで電車線から抜かすという光景があった。(余裕時分の関係もあった)
これでは本社側=東京のメンツが立たぬとパターンダイヤをずらせと指示したが、当時の大阪鉄道管理局は首を縦に振らず、結局は本社が特急のダイヤを変更したという伝説もある。
72年になると、山陽新幹線が岡山まで開業。山陽方面の急行に使われていた153系が余った。失業した153系新快速で使い倒すという荒業に出たのがブルーライナー2代目新快速の登場である。


153系時代の新快速に小生も乗車した事が1度だけあった。先ず新大阪を通過するというのが信じられなかった(当時は特急も新大阪通過)。京阪神という三都をダイレクトに結ぶ速達列車で関西のシンボルという存在だったから、敢えてデッキがあって乗降が不便で老朽化していても153系で良かったのであろう。
見方を変えれば平準化が国鉄のモットーで独自の車両も作る余裕もないから、近郊型より格上な急行形を持って来るのが精一杯だったと言えなくもない。
これが乗車券だけで乗れる事を含めて当時幼かった小生は色々とカルチャーショックを受けた様に記憶している。


117s4@ymsi01
まだシティライナー色の頃の117系と223系との並び

そして1970年代終盤~80年代になると国鉄改革そして民営化という怒涛の流れが忍び寄る、新快速も例外でなかったと言えるだろう。そこで導入されたのが117系だった。

80年代以降の話は、Part 2 へと続く!



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近畿日本鉄道、その路線網の殆どが完成していた1960年代当時、近鉄大阪線・奈良線のターミナルは上本町一択だった。
戦前の大阪電気軌道時代から難波乗り入れは悲願だったが、1922年・1932年の2回の許可申請も共に大阪市の市営モンロー主義に阻まれてきた。
そして戦後間もない1946年には、阪神と共同で鶴橋~難波~野田というルートで申請を出した。戦争で出た瓦礫を使って築堤で大阪の町を跨ぐ様に建設するという少々破天荒にも見えるものだった。しかしそれも敢え無く再び阻まれた。
戦後の大阪及びその周辺地域の発展と人口増加は凄まじく、難波延長の必要性はドンドン大きくなっていった。近鉄阪神相互乗入れの為に上本町~難波~千鳥橋というルートで免許申請がされた、その後その内容も数回にわたり変更され、高架は地下鉄方式に改められた。そういう紆余曲折を経て漸く都市交通審議会答申3号で盛り込まれ、1958年に運輸省の免許が交付された。
1922年の最初の申請からここまで36年の歳月を要したが、難波乗入れに向けて動き出すと共に、近鉄と阪神の相互乗入れも運命付けられたのかも知れない。


kt9727@nkda01

着工に漕ぎ付けるまでに7年の歳月を要し、着工は1965年10月となった。何よりもEXPO '70=大阪万博(Ⅰ)に間に合わせなければならない。工事には日本国内初という工法が幾つも盛り込まれた。その代表例が駅間の工事で採用された複線機械シールド工法であった。(駅部分は開削工法)
使われたシールドの部品はアメリカで制作された後神戸港経由で輸入され、上本町地下で組み立てられた。その機械は1969年4月15日には1日15m掘り進むという当時の世界記録を打ち立てた事もあった。掘った所に埋め込んで行く鉄筋コンクリートセグメントもこの路線用に新たに開発された物だった。日本橋~難波間では地質が悪く、地下水が大量に出たためそれを地上から抜くという「ディープウェル工法」が採られ、これも日本初の採用例となった。
そして、1969年12月28日にシールドが難波駅に到達、この時点で万博まで3ヶ月を切っていた。軌道工事も当時としては最新の方法で行って工期を1/3に短縮、架線もシンプルカテナリー式剛体架線がこのために開発された。
架線については特急を発着させる事もあり、通常の剛体架線では70㎞/h以上は出せなかった(当時)事もあり、「高速運転に耐え、断線しない経済的な架線」を開発する必要があったという事情もあった。

ktvasat@isash01

当時としては革新的とも呼べる技術を用いた難波線建設、この時代の関西では自動改札が産声を挙げた。まさに関西に力があった時代を象徴する話である。

斯くして、万博初日=1970年3月15日に難波線は開業を迎える事が出来た。ただその後はと言うと、難波線阪神なんば線と繋がり「運命」が現実になるまでは39年の歳月を要した。
今年3月15日で丁度50年になったという訳で、恰もそれを記念する号砲の如く80000系ひのとりがデビューした。


hs1258@hhan01

因みに難波線には1991年まで加算運賃が適用されていたのを覚えている方はどれだけいるだろうか?(現在は阪神なんば線に加算運賃が適用されている)



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