今や中共の侵攻からアジアにおける民主主義を守る砦の役割を香港から引き継いてしまった台湾。
台湾民主化は勿論この人無くして語れないという事で、李登輝氏の話の其の弐。


台湾の近世以降というと、17世紀から清朝の統治下にあった。そして1895年に日清戦争の結果を受けての下関条約で清朝から日本に割譲され1945年まで日本領だった。
台湾では福建系・客家系・原住民系が主だった人種であるが、李登輝氏のオリジンは福建で、客家系の血が混じっているとされる。父親=李金龍は警察官で比較的裕福な家庭で、李登輝自身も幼少期から優秀で論語から古事記、夏目漱石全集を読破していたという。


彼は京都帝国大学に進学したが、その理由が農業経済の専門家だった新渡戸稲造(当時は京都帝国大学教授=旧5000円札の人)をリスペクトしていたからというもの。
裕福とはいえ住んでいたのは淡水郡三芝床という当時は田舎(現在は新北市三芝区)。田舎の家に居ては進学も難しいといって12歳で生家を離れ、友人の家で居候生活をして、日本に渡って京都帝国大学に入った。そして、幼少期は母親=江錦に溺愛されて「情熱的で頑固な性格になった」李登輝自身はこの居候生活の間に他者との関わり方を学んだという。


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李登輝の生前の言葉では、「他人と違う人間でいたいという欲(分離)・自分を守ってくれる者との結合という欲求がある」「この二つが拮抗して人間の自己が形成されて行く」「人生の中で離れたりくっついたり、自由と不自由が繰り返す」
「相反するのもがぶつかり合う事は歴史の必然」「人間の歴史は伝統と進歩という一見相反するものがアウフヘーベンして成り立つ」
人の人生も社会や国の歴史も、一見相反するものがせめぎ合いアウフヘーベンして成り立つという事になるのだろう。


相反する様なものがあった時、直ぐにどっちを取るか二者択一みたいな考え方をしてしまうケースが多い。その方が早くて判り易いからと安易に走ってしまわないだろうか。
相反するものでもぶつかり合うのと同時に共存し、アウフヘーベン状態になる。これこそ民主主義の一丁目一番地である。それを端から認めないのは共産主義、つまり中共と一緒である。


李登輝は蔣経国暗殺未遂事件が起きると、木文雄と親交があったという理由で台湾当局の厳しい取り調べを受けたが、農業経済の専門家として重要な地位を得ていた彼は蔣経国(蒋介石の息子)の側近として登用される。1971年の事である。
当時の台湾は外省人の国民党独裁。本省人の役人は犬と言われ、(大陸から来た)外省人の役人は豚と呼ばれていた。外省人が社会の上の方はほぼほぼ独占して本省人を虐げていた時代である。そんな中で国民党政権内に本省人として飛び込んで行く事になる。
そこから総統になるまで17年、民選総統になるまで25年、用意周到に静かなる革命への歩みを進めて行く事となる。
蔣経国政権が、「後継者は蒋の家から出る事は無い」と発言する等、暗殺未遂を機に民主化という方向に舵を切り始めたのも李登輝にとっては幸いだったと言える。70年代といえば中華人民共和国と国交を結ぶ国が増えて中華民国は国際的に孤立を深めた時期でもある。


其の参へと続く!


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