近畿日本鉄道、その路線網の殆どが完成していた1960年代当時、近鉄大阪線・奈良線のターミナルは上本町一択だった。
戦前の大阪電気軌道時代から難波乗り入れは悲願だったが、1922年・1932年の2回の許可申請も共に大阪市の市営モンロー主義に阻まれてきた。
そして戦後間もない1946年には、阪神と共同で鶴橋~難波~野田というルートで申請を出した。戦争で出た瓦礫を使って築堤で大阪の町を跨ぐ様に建設するという少々破天荒にも見えるものだった。しかしそれも敢え無く再び阻まれた。
戦後の大阪及びその周辺地域の発展と人口増加は凄まじく、難波延長の必要性はドンドン大きくなっていった。近鉄阪神相互乗入れの為に上本町~難波~千鳥橋というルートで免許申請がされた、その後その内容も数回にわたり変更され、高架は地下鉄方式に改められた。そういう紆余曲折を経て漸く都市交通審議会答申3号で盛り込まれ、1958年に運輸省の免許が交付された。
1922年の最初の申請からここまで36年の歳月を要したが、難波乗入れに向けて動き出すと共に、近鉄と阪神の相互乗入れも運命付けられたのかも知れない。


kt9727@nkda01

着工に漕ぎ付けるまでに7年の歳月を要し、着工は1965年10月となった。何よりもEXPO '70=大阪万博(Ⅰ)に間に合わせなければならない。工事には日本国内初という工法が幾つも盛り込まれた。その代表例が駅間の工事で採用された複線機械シールド工法であった。(駅部分は開削工法)
使われたシールドの部品はアメリカで制作された後神戸港経由で輸入され、上本町地下で組み立てられた。その機械は1969年4月15日には1日15m掘り進むという当時の世界記録を打ち立てた事もあった。掘った所に埋め込んで行く鉄筋コンクリートセグメントもこの路線用に新たに開発された物だった。日本橋~難波間では地質が悪く、地下水が大量に出たためそれを地上から抜くという「ディープウェル工法」が採られ、これも日本初の採用例となった。
そして、1969年12月28日にシールドが難波駅に到達、この時点で万博まで3ヶ月を切っていた。軌道工事も当時としては最新の方法で行って工期を1/3に短縮、架線もシンプルカテナリー式剛体架線がこのために開発された。
架線については特急を発着させる事もあり、通常の剛体架線では70㎞/h以上は出せなかった(当時)事もあり、「高速運転に耐え、断線しない経済的な架線」を開発する必要があったという事情もあった。

ktvasat@isash01

当時としては革新的とも呼べる技術を用いた難波線建設、この時代の関西では自動改札が産声を挙げた。まさに関西に力があった時代を象徴する話である。

斯くして、万博初日=1970年3月15日に難波線は開業を迎える事が出来た。ただその後はと言うと、難波線阪神なんば線と繋がり「運命」が現実になるまでは39年の歳月を要した。
今年3月15日で丁度50年になったという訳で、恰もそれを記念する号砲の如く80000系ひのとりがデビューした。


hs1258@hhan01

因みに難波線には1991年まで加算運賃が適用されていたのを覚えている方はどれだけいるだろうか?(現在は阪神なんば線に加算運賃が適用されている)



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