国鉄70周年というネタも月を跨ぐ形になってしまったが(当初の想定外)、漸くゴールが見えて来た。
さてここで、「30年以上戦争」って何や?といわれれば、それはJR 東日本JR 東海の間に今も存在する冷戦の事である。この冷戦の元は国鉄民営化プロセスの不透明な部分に見出す事が出来る。
国鉄改革三銃士とも称された松田昌士葛西敬之井手正敬の3氏だが、民営化を確実に遂行すべく国との折衝の窓口になったのは松田氏であった。国鉄内で民営化の実質的主導者は松田を含めた経営企画室だった。国側の再建監理委員会と国鉄の経営企画室との間で民営化の重要プロセスは進められていった。
その頃労務畑を仕切っていた葛西氏以下JR 東海幹部になる者達は、労務関係で手一杯となってしまい資産や路線の分割継承といったメインの部分にはタッチ出来なかったらしい。
何処から見ても政府サイドとズブズブになった経営企画室の一派がJR 東日本創立の核となったのだが、その背景を象徴していると見える出来事が、住田正二のJR 東日本初代社長就任とも言えるだろう。住田正二氏といえば運輸事務次官からANA 顧問を経て国鉄再建監理委員会のメンバーになった人物である。(松田昌士氏は第2代社長)


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EF65-535、2011年10月大宮車両センター一般公開にて

当時の運輸官僚達の腹積もりとすれば、東京に本社を置くJR 東日本をJR の頂点に君臨する様にしてJR 東日本の大成功=国鉄民営化成功という図式を作った上で、有力な天下り先としても太らせられれば万々歳という事だったのは想像に難くない。首都圏を中心とした優良資産も優先的にJR 東日本に割り振ったのである。ここだけでもインチキ官製八百長の臭いがプンプンしていると感じる御仁も多かろうが、これには葛西敬之氏が誰よりも憤ったのは明らかだった。(当時の社長は須田寛氏=優先席、オレカ、ホームライナーの生みの親)
更にその憤りの火に油を注いだ存在が新幹線保有機構であった。JR 発足時に東海道を始めとした新幹線は新幹線保有機構なる組織の所有になる事とされ、本州3社がそれぞれ借り受けて運営する事となった。JR 各社の間での収益調整による均衡化という、これまた変な匂いがプンプンする様な名目が付いていた。


この仕組みでは各社からの上納金(リース料)は各路線の利用状況=儲かり具合に応じて負担させる訳で、この当時東北・上越新幹線はまだ採算性が悪く赤字で、収益力という部分で東海道の足元にも遠く及ばなかった。保有機構には年間7000億円程入るリース料の内60%が東海からであったが、これは東日本のそれに対して倍の金額であった。抑々、設備的に一番古い東海道のリース料が圧倒的に高いという事自体、民間企業のビジネス的ルールから逸脱している。
(今でも東北上越北陸系が東海道には太刀打ち出来ていないのは明らかだが)


これは要するに東海道新幹線の儲けが吸い上げられて結果的に東北上越の穴埋めに使われるという事を意味していて、東海道新幹線に収益の大部分を頼らざるを得ないJR 東海からすれば、首都圏で僅かな土地しか継承出来ていない事とも併せて到底受け入れられないスキームだったのは明らか。
「俺達を国鉄改革のメインルートから外して、その上寄ってたかって金まで更に搾り取ろうとするのか?」となれば葛西教祖以下東海旅客鉄道の人間達の怒りの矛先は霞が関とJR 東日本に向けられたのは当然の事だったかも知れない。本州3社の中で押し付けられた国鉄の借金が一番大きかったのも東海である。


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300系J60編成末期の姿 2011年6月・品川~新横浜間

そこで怒りの導火線に火が付きまくった葛西氏及びJR 東海は1989年になって反撃に出た。それが「新幹線保有機構をぶっ壊す!」である。
保有機構がある限り、JR の持てる新幹線資産は車両のみということになり設備の保守・改修更新については減価償却が計上できないというのは東海にとってとんでもない手枷足枷だった。
東海道新幹線では輸送力増強・高速化を見据えて莫大な費用を投じての設備更新を進めなければならない時期に当っていたが、線路設備はリースなのにその更新は運営するJR 側の負担というルールだった。
新幹線の線路や設備は将来的に保有機構から各社に渡される事にはなっていたが、その時期は不明で無償になるのか有償になるのかもはっきりせず、有償になったとしてもその金額の見込みも立たないという次第だった。当時はバブルという事もあって、国鉄末期に凍結された整備新幹線建設という声も活発化していたので、保有機構が第2のキングボンビー鉄建公団となる様相すら呈していたので、整備新幹線の為に更に搾り取られ続けるという最悪過ぎる事態も十分想定された。


東海にとっては債務の額を早い内に確定させる必要にも迫られていた。保有機構なんていう訳の解らぬ組織に翻弄される事なく色々な部分をクリアにしたいという意向が強かったのは明らかである。その一方、東海道新幹線を金蔓に出来たと思っていたJR 東日本からすれば、それが糠喜びになってしまうという事でもあり受け入れられるものではなかった。
何度も言う様だが、時はバブル景気という波に乗る様にして東日本東海は当初の見込みを大幅に上回る売上と利益を初年度から挙げていた。そこで葛西教団は新幹線に100系800両を大量追加発注=0系大量淘汰と全編成16連化、在来線用にも211系・213系の追加発注に加えて311系とキハ85系を新規投入。国鉄から引き継いだボロ車の淘汰と同時に計上出来る減価償却費の積み増しを狙ったもので、後者の方が意味合いとしては大きかったとも考えられるが、それでも設備投資費の66%程度の減価償却費しか作れなかったのである。
こうした背景もあって1987~91年の 4年間で東日本西日本は債務を減らす事が出来たのに対して、東海はその債務を減らすどころか増やしてしまった。


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末期の100系西日本車K54編成 2009年・新大阪駅にて

新幹線保有機構というヘンチクリンなスキームを維持したい運輸省、JR 東日本西日本を相手にした葛西教団の戦いの火蓋が切って落とされるのであるが、この上納金は2年毎に改定される事になっていた。1989年にあった1回目の改定の折だった、そこで利益の伸びないJR 西日本はリース料のダンピングを要求して来た、結局ダンピングされた200億円の内150億は東日本が、50億を東海がもつ事となった。そして東海はこれと同時に、この後のリース料の固定及び中央新幹線は東海道とセットで葛西教が経営するという事を国に確約させたのである。
国鉄の債務の返済にはJR本州3社の株式上場が避けて通れない事案だったので、1989年12月の閣議決定で1991年度から清算事業団保有の本州3社株式売却開始がなされる事になった。これが結果的にJR 東海に味方した。


土地の売却にはストップを掛けられていた状況下では、国鉄債務返済のために出来る事は株式売却しかなかったので、国側も株式上場と売却開始を急がざるを得なかった。運輸省はJR 株式上場問題検討懇談会なる諮問機関を立ち上げたのだが、そこでの東京証券取引所から陳述された意見で保有機構解体に向かう事となった。
新幹線のリースという仕組みは30年維持されて、その後各社に譲渡されるという事にはなっていたが、これだと2017年まで資産内容・バランスシートが確定出来ない事になってしまう。東証からの指摘によると保有機構による非常に恣意的な利益調整が働く危険性があり、政治・行政の不当な経営干渉の温床になる危険性も高いからこのままでは上場なんて不可能で、新幹線設備もJR に譲渡して財務諸表を明確にさせなければならないとなったのである。
斯くして、上場が延々と先延ばしされるのはさすがに無理という判断が国、JR東、JR西にも働いてこのヘンチクリンなスキームは解消される事となった。1991年10月新幹線設備は本州3社に売却されて保有機構は解散した。ただ、JR 側の試算で8兆円程度と見積もられた売却金額だったが、実際のそれは9兆円を超えた。
新幹線保有機構の代わりに鉄道整備基金が設立されてしまい(現在は鉄運機構=JTTR に継承)、その財源の為に1兆円分ぼったくられたものと考えられる。



冒頭でゴールが見えてきたとは言ったが、達したとは言っていないので、其の九へと続く!



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